香港政界の再編と整合-民主派も行政長官選挙に参戦-
香港行政長官選挙第1段階、選挙人団選出で公民党圧勝 - 中国
【香港/中国 11日 AFP】2007年の香港行政長官選挙の選挙人団の選出で、前週末に住民20万人による投票が実施され、民主化を推進する公民党候補への投票を誓約している選挙人が多数選出された。公民党は11日の記者会見で、選挙人団選挙での圧倒的な支持獲得は、民主化へ向けて香港が踏み出している兆候だと祝福する声明を発表した。香港特別行政区の行政長官は、住民による直接選挙ではなく、800人の選挙人団による公選制。前週末に選出されたのはこの選挙人団で、選挙人への立候補は困難ではない。写真は11日、記者会見する公民党のメンバーら。(c)AFP/Samantha SIN

(写真下は「鳥籠民主主義」を諷刺する鳥籠と、「温家宝総理は香港を支持するというが、董長官はとんでもない低能。とっとと辞任せよ!」と罵倒するプラカードを持ち、七・一50万人デモに参加したタクシーの運転手=2003年7月1日、龍眼撮影)
まもなく祖国回帰10周年を迎える香港。
返還後の香港は、一国家二制度(社会主義国家のもとでの資本主義)とはいうものの、中国中央政府が制定した「香港基本法」により、さまざまな制約がある。たとえば、大統領にあたる行政長官はわずか800人の選挙人でおこなわれる間接選挙で選出。国会にあたる立法会の議員も、直接選挙で選ばれるのは半数。のこりの半分は間接選挙で選ばれている。
このような、がんじがらめの制限付き「民主」を、香港市民は「鳥籠民主主義」(ウーロン・デモクラシー)と自嘲してきた。それでも植民地から祖国に還るのが先決と、このような不条理な仕組みを、甘んじて受け入れたのだ。
だが、それだけで終わらないのが香港人のえらいところ。初代董建華行政長官の相次ぐ失政に、我慢に我慢を重ねてきた香港市民は、SARSが大流行した2003年の7月1日(香港回帰記念日)、ついに総決起した。香港全人口680万人のおよそ14分の1に相当する50万人が、ビクトリア公園から香港政府ビルまで歩きとおす「七・一大遊行」(デモ)に参加したのだ。
そこで主張されたのが、董建華行政長官の辞任要求と、行政長官、立法会議員を完全な普通選挙、直接選挙で選ぶという、あたりまえの要求だった。だが、そのあたりまえのことが簡単ではないのが香港。そして、簡単には諦めないのが香港人だ。
「七・一大遊行」の取り組みを通じて、1989年の第二次天安門事件以後に生まれた10代から20代前半の若者たちのなかに、政治的な覚醒がおこった。香港中学生連盟(中高生の全学連)、公民起動(キリスト教を背景に持つ青年グループ)、七一人民批など、新しい政治グループが次々と生まれている。
さらに翌2004年の7月1日にもほぼ同規模の大デモが行われ、香港市民が依然として民主的な選挙制度を希求していることを内外に示した。これら香港市民の大衆示威行動のもう一つの特徴は、警官隊との衝突など、暴力沙汰がいっさい発生していないことだ。
香港は高度に発達した文明社会であり、世界有数の都市社会である。香港市民は条理をつくし、穏和な手段で自らの政治的意見を表明し、実現する術を身につけている。
そしてこのほど、次期行政長官を選ぶ選挙人800人を選出する選挙がおこなわれた。七・一大遊行を契機に生まれた政治集団、「45条関注組」が母体になって組織された穏健民主派政党「公民党」の候補者が、他の候補者を圧して、全800人中、最高位の137人の選挙人を獲得した。これには民主派の老舗、民主党などの協力もあり、急進民主派以外の「汎民主派」(オール民主派)がほぼ結束しての賜物だった。これにより、香港の民主派は2007年に行われる香港行政長官選挙に、自前の候補者を擁して参戦できる。
1997年7月1日の香港回帰からまもなく10年。回帰後の香港政治を通観したい。
◆香港の「鳥籠民主主義」
アヘン戦争以来、一世紀半あまりにわたるイギリス植民地支配を経て、1997年7月1日に祖国中国に回帰した香港。回帰後の香港は、社会主義国家のもとでの資本主義社会という一国家二制度(一国両制)が保障され、外交と国防以外は香港市民の「高度な自治」に委ねられているとされる。
だが、中国政府が自ら言うように、「高度な自治」とは「完全な自治」ではない。香港返還を決めた1984年の中英協定にもとづき、中国の国会にあたる全国人民代表大会は、90年4月4日におこなわれた第七期大会第三回会議で香港の憲法にあたる『香港基本法』を可決。香港人のいない所で、回収後の香港統治の基本的枠組みを決定してしまった。
回帰直後にはアジア通貨危機や鳥インフルエンザ問題など、あいついだ経済問題に隠れて目立たなかった香港政治の懸念は、まず香港生まれの内地子女の居住権問題として浮上した。香港の最高法院判決では決着せず、最終的に中国の全人代の法解釈に委ねられた。香港の最高法院の判決までが否定されるという結果に、香港の「法の支配」が、じつは中国中央政府に従属していたことが明らかになった。
司法もさることながら、立法、行政にも制約が大きい。
97年以前の立法評議会では、イギリス最後の総督をつとめたクリストファー・パッテンが行ったパッテン改革で、直接選挙枠が徐々に広げられていった。95年に行われた立法評議会選挙(植民地の一院制議会)では、民意に基礎をおく民主党などの民主派が直接選挙枠でことごとく勝ちをおさめ、全議席の過半数を確保するという、めざましい伸長を示していた。
ところが、中国政府はこれに反発。植民地議会である立法評議会と返還後の立法会を「直通列車」で接続することを拒否。暫定的に臨時立法会を置くことで民意代表を大幅に制限した。これに不満な民主派の大多数は臨時立法会選挙をボイコット。香港回帰とともに出現した臨時立法会では、一年余りにわたって民主派議員がほぼ空席という異常事態となった。
この異常事態は、98年に行われた返還後最初の立法会選挙で失職していた民主派議員のほぼ全員が返り咲いたことで解消されたが、立法会議員の選出方法は『香港基本法付属文書二』の規定により、直接選挙枠を一定議席数に制限していた。すなわち、98年の選挙では全議席の3分の1の20議席、2000年選挙で24議席、04年選挙で30議席へと漸増させたものの、これでもようやく全議席の半分。残りの30議席は職能団体選挙といって、業界団体などの限られた選挙人の互選で決められてきた。
その後の選挙制度は、香港政府が中国中央政府の承認を経て定めることができるが、香港政府はいまだに立法会と中央政府の承認を取り付けることに成功していない。このまま推移すれば、08年立法会選挙も現行制度のまま行われる可能性が高い。
香港の大統領にあたる行政長官は、香港の統治に広汎な権限を持つ。
行政長官は自ら組織する行政会議(閣議)とともに香港の行政を担うが、この行政長官選挙も住民の直接選挙ではなく、わずか800人の選挙人から選出される。 その選挙人とは、工会・金融界から200人、専業界から200人、労働・社会奉仕・宗教などから200人、立法会議員・区議会議員・全人代代表・全国政協委員などから200人を選出し、これらの選挙人によって選ばれた人物を、中央人民政府が任命する仕組みだ。
つまり、回帰後の香港統治は、直接選挙とはほど遠い、財界人など一部有力者の「小圏子政治」(仲良し政治)で行われるもので、民意を部分的にしか反映しない制限選挙下におかれている。回帰後の香港を、「港人治港」(香港人による香港統治)ではなく、「商人治港」(財界人による香港統治)とか、「京人治港」(中央政府による香港統治)と形容するのは、このためだ。
香港市民は、このような宿命を、「鳥籠民主主義」(鳥かごのなかの民主主義)と自嘲する。97年7月1日に行われた平和的なの主権移行を、イギリス植民者は「香港返還」と語るが、中国から見れば「香港回収」となり、香港市民から見れば「香港回帰」となる。だが、、祖国に「回帰」したのに、植民地のような状態は解消しなかったのだ。
そもそも植民地香港のはじまりであるアヘン戦争での軍事的な「強奪」も、祖国に「回帰」する中英協定も、香港市民はいつも蚊帳(かや)の外におかれていた。こうして与えられた境遇が「鳥籠民主主義」だ。日本の明治憲法体制にも似た制限選挙制。民意代表が主導権をとれない二重三重の仕掛け。制約はあまりにも大きい。それでも香港市民は、この立場から出発することを甘受したのだ。
イギリス植民地時代とて香港に民主などなかった。民主とは、自ら闘い取るものだ。
◆回帰後の香港
回帰後の香港は、アナーキーで活力あふれる大いに減衰させたかに見えた。まもなく始まったタイ・バーツの暴落に端を発するアジア通貨危機。日本人観光着の駆け込み需要で好調だった観光業も、97年以降は低迷。なにしろ、鷄インフルエンザ(5W1H)問題に、牛海綿状脳症、豚連鎖球菌感染症までが追い打ちをかけた。素直に飲茶(ヤムチャ)が楽しめない。
中産階級は、不動産価格の暴落で住宅の転売が出来なくなった。割賦中のマンションの金利負担が重くのしかかる。いっぽう、これといった技能をもたない低所得者層(基層)はさらに深刻。多くの事業所、商店が店をたたんで次々と撤退していくなか、職にありつけない労働者が街にあふれた。
新聞には毎日のように自殺のニュースが賑わせていた。当時の街角で目立ったのは「租、租、租」、「LENT! LENT!LENT!」という、不動産広告の洪水。ネーザン通りのような表通りにも、壁面という壁面、窓という窓を埋めつくすようにして貼り尽くされたこれら不動産広告の光景を、龍眼は今も忘れることができない。
董長官の施政にも問題が多かった。あいつぐ経済問題の対応が後手後手にまわったうえ、施政方針で示していた毎年8万5千戸公共住宅を建設するという公約を、いつのまにか反故にするなど、政策の透明性に欠けていた。しかも少数の補佐官を重用する側近政治を行ったため、立法会や官僚たちとの関係も良くなかった。
2000年夏、董長官の不人気ぶりをマスコミに公表していた香港大学の世論調査機関に、「世論調査をやめろ」と圧力をかけていた事件が露顕した(港大民調事件)。
香港大学学生会は、連日連夜大学当局を糾弾。担当教授に「調査をやめるよう」勧告していた学長・副学長がそろって辞任する騒ぎに発展した。
しかし、圧力をかけた董長官の側近、路承安特別補佐官に対する調査と問責は、立法会の賛成少数で実現しなかった。
龍眼はこのおり、張殷淇(グロリア・チェン)香港大学学生会長をインタビューしている。おりしも非難の矛先が大学幹部から特区政府に移り、路特別補佐官、董長官をどこまで追及できるかどうかが焦点になっていた。
グロリアは、広東人に多い小柄な体躯の少女。見た目には、中学生くらいにしか見えない。その可憐な少女が臨時教授会に出席(香港大学では学生会長も教授会に出席)し、大学当局をきびしく追及。学長、副学長がそろって引責辞任した。香港マスコミは彼女を殊勲者扱い。連日トップニュース扱いで、大きく紙面を割いていた。
香港大学の黄克競平台(学生会館前広場)には、テレビカメラが待ち構え、記者たちが張り付いていた。グロリアは不眠不休の闘いで疲労の極限。龍眼のインタビューの最中にも意識朦朧となって質問を中断しなければならない場面があった。しばらく休憩をとり、缶コーヒーを差し入れてようやく再開。最悪のコンディションのなかで、グロリアは遠来の日本人を相手に、特区政府による世論調査への圧力の顛末を懇切丁寧に説明してくれた。
「私たちは、路承安特別補佐官、董建華行政長官の責任を徹底的に追及します」。
インタビューの翌日、学生たちは立法會への陳情デモを行った。「国傷の塔」がある黄克競平台(学生会館前広場)に集合。半山区(ミッドレベル)、上環大街を抜けて業務地区の中環(セントラル)の立法会ビルまでのコース。龍眼も学生たちのデモについて歩いた。
おりしも重陽節の時節。街には提灯、線香、月餅があふれていた。学生たちは手提提灯や月餅に模したプラカードに、董長官や特区政府を非難する思い思いの文言(もんごん)を書きこみ、シュプレヒコールをあげながら立法会ビルを目指した。わずか十数名のデモに、記者たちの数のほうが多い。沿道の市民の関心は、当時はいま一つだった。
◆七・一50万人デモの衝撃
このような香港の閉塞感を打ち破ったのが、03年7月1日の七・一50万人デモだ。
この年の春、中国広東省から広がった新型肺炎SARSは、香港、ベトナム、北京、そして台北へと感染。とくに香港は1755人が感染、299人が死亡するという、一都市あたりとしては最大の感染地となった。貴い命の犠牲は、医師、看護人員におよび、香港政府の対応、とくに董建華行政長官の初期判断のまずさが非難された。
WHOの感染地域指定が解かれたばかりの5月末。龍眼は医師や看護士が殉職した新界の病院を訪問した。手洗いやうがいを奨励するポスターが貼りだされたエントランスを入ると、入口ロビーに亡くなられた医師、看護士の遺影が飾られた祭壇が設けられていた。その左右を、子どもたちの絵画や花輪が囲む。
弔問客にまじり、非番の同僚も入れ代わり立ち代わり訪問、遺影にむかって語りかけ、頭を垂れていた。全員がマスク姿。物音もほとんどしない。病院全体が悲しみにうち沈んでいるかのように見えた。
大量の患者を出した九龍湾の淘大大廈(アモイガーデン)にも足を向けた。
戸山ハイツにも似た80年代に建設されたマンション群。多くの患者を出した一棟だけが、緑色のネットで覆われていた。龍眼が訪問したおりには敷地内の淘大商場(アモイ・マーケット)が営業を再開したばかり。中を覗くと、ケンタッキーも、吉野家もガラガラだった。
日本の外務省は、「用のない人はなるべく行かないように」という注意喚起情報を出していた。観光客は激減。今なら700香港ドル以上する4星級のホテルが、半額の350香港ドルで泊まれた。エレベーターのボタンは透明なビニールシートで覆われ、ゴム手袋をはめたベルボーイが定期的に交換していた。真っ白な雑巾と真新しいモップを手にしたマスク姿のおばさんたちが行き交い、こまめに掃除している。消毒の塩素の匂いがツーンと鼻をついた。
香港でSARSの感染が広がったのは、中国広東省の情報隠蔽につきあい、事態を軽く見たためだ。同じころ、お隣のマカオ政府は独自ルートで情報を入手。新型の感染症が広州からやってくるとして、徹底した防疫作戦をとり水際で防いた。なにしろ、「飲み、打つ、買う」が全部揃う観光都市マカオ。感染が広がったら、香港以上にダメージが大きい。
03年6月4日、香港恒例の六・四天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会は、多くの市民が外出を控えるという予想から、参加人数が心配された。しかし、蓋をあけてみると香港回帰以来最高の8万3千人。半数はマスク姿で完全武装し、悲壮な覚悟での参加だった。
この日いちばん盛り上がったのは、七・一大デモの行動提起に、評論家の黄●(毎+充の下三本線)民が壇上にのぼったときだ。黄が「董建華下台!」(トンキンワーハートイ!)と大声を張り上げるや、一瞬静寂が走った。いままで香港市民が口にしたくとも、絶対に口に出せなかった言葉た。まもなく、一種異様などよめきがおこり、つづいて人々は何者かにとりつかれたように、大声で「董建華下台!」、「董建華下台!」と唱和しつづけた。
七・一大デモは、董建華行政長官が強行する「国家安全条例」(治安維持法に相当)に反対する広汎な市民たちの手で準備された。中国全人代が定めた『香港基本法』の第23条には、反乱・内乱の計画や、外国勢力との通諜を処罰する「国家安全条例」を香港政府が自ら定めると明記されている。しかし、その内容の細目があきらかになるにつれ、香港各界から、「言論・表現・通信の自由が侵される」、「NGOの国際的な活動も恣意的に弾圧される」と懸念する声が出ていた。制定作業が大詰めを迎え、勝負の秋(とき)が来たのである。
7月1日の回帰記念日。この日の香港は各地で35度を超える炎暑。それでもMTR(地下鉄)港島線は、休日にもかかわらず昼前からすし詰め状態。最寄り駅の銅鑼湾(コーズウェイベイ)や天后は、通勤ラッシュ時なみの混雑となり、交通規制が布かれていた。
銅鑼湾からビクトリア公園に向かう糖街(シュガー・ストリート)にも警官隊が出動。
まだデモも始まっていないのに、昼間から救急車のサイレンが鳴り響き、日射病で倒れた婦人を収容して運び去っていった。この日、警官隊との衝突は何一つ起こらなかったのだが、救急車のサイレンの音はいくたびとなく聞いた。日射病で病院に運ばれた市民の数は、じつに47人を数えた。
公園の入口では、董建華行政長官ら悪役官僚3人をかたどった張りぼて人形を背おった曽健成元立法評議会議員(阿牛)がアトラクションを始めた。たちまち群がる子どもたち。大人たちも競って阿牛に握手を求め、一緒に記念写真を撮り、嬉々としている。
公園の外周に沿い天后方面に向かって歩いていると、中央図書館の敷地にも人だかりが見えた。入口前の階段では、香港中学生連盟の若者たちがメガホンを持って行き交う人々にデモへの参加を呼びかけていた。香港の中学は7年制。日本で言う高校生や大学予科に相当する年齢までが含まれるが、それでも自発的に組織された中高生の全学連というのは、世界的に珍しい存在ではないだろうか?
天后方面からマーチングバンドの音響が響いてきた。見渡すと董建華行政長官の葬列を模した黒装束の楽隊。陸橋の階段から立て続けにシャッターを切っていると、警官がつかつかと寄ってきて、「撮るな!撮るな!」と、威嚇する。しかし周りには警官よりもデモ隊のほうが遥かに多い。警官も最後には諦めて、すごすごと帰っていった。
午後3時、民間人権陣線の大きな布幕を先頭にデモが始まった。この日までハンストを続けてきた車椅子の車隊がつづき、そのあとを一般市民が延々と続いた。炎天下のなか、最初のしばらくは日傘の大群。電池式の携帯扇風機を手に、汗しずくを垂らしながら死にそうな形相で歩いている小学生もいた。たしかに尋常な暑さではない。
香港政府はデモ隊のために、片側三車線を開放していた。だが、参加者が多すぎて、なかなか前に進めない。ビクトリア公園には、出発を待つ圧倒的多数の市民たちが取り残されていた。反対側三車線を走る二階建てトラムやバスにも、これからビクトリア公園にはせ参じようとする市民たちがたくさん乗っていた。かれらは窓からプラカードや横断幕をかざし、デモ隊に声援を送る。
小一時間もたっただろうか。警察は残りの三車線の交通をすべて止め、六車線すべてをデモ隊に開放した。警官に誘導され、後方から駆け足で進んできた後続の人々。これを拍手と歓声で迎える先発の市民たち。それでも、ビクトリア公園で待機していたデモ隊の最後尾が出発したのは午後7時半。出発だけでも4時間半もかかった。この日のデモ参加者は50万人(民間人権陣線発表)。
道路中央のトラムの防護柵によじ登ってあたりを見渡したところ、前後左右とも黒山の人だかり。どこまでも果てが見えない。それどころか、沿道のビルの窓からも横断幕やプラカードを掲げ、手を振る市民たち。人口680万の巨大都市香港が、怒気を帯びた50万人の声に呼応し、地響きを立てて揺れていた。
「反対二十三!」、「要求SARS独立調査!」(悪法反対! SARS隠蔽の責任をとれ!)
「董建華下台!」「還政於民!」(董建華辞めろ! 政治を人民に返せ!)
この日の午前中、香港政府は中国から温家宝首相を招いて回帰記念式典を催していた。デモとの遭遇を避けるため、異例の午前10時からのスタート。参加者は朝早くからシャンペンを飲まされ、昼から顔を真っ赤にしていた。温首相も危険を避け、午後には深●(土+川)に脱出。あとでテレビで50万人デモの映像を見て、大変な驚きようだったという。
50万人デモは、香港政府に致命的な打撃を与えた。
財界寄りの自由党が、国家安全条例への態度を留保して、田北俊主席が行政会議(内閣に相当)から離脱。親中国派の曾鈺成主席も、「2012年からの全面普通選挙実施を検討すべきだ」と発言するなど、明らかに民意にすり寄る対応を見せた。
董行政長官は、七・一50万人デモののち、国家安全条例の制定を担当していた葉淑儀(レジーナ・イップ)司法長官と、別の疑惑で市民から指弾されていた梁錦松財政長官を更迭。しばらくして国家安全条例そのものの凍結を発表した。七・一50万人デモを敢行した、香港市民の完全な勝利だった。
デモを主催した民間人権陣線は、その後も立法会ビル包囲キャッドル行動などの大型集会をおこない、要求を07年行政長官選挙と、08年立法会選挙の全面普通選挙要求に切り換えていた。
03年11月におこなわれた区議会選挙で、民主党など民主派が大勝した。親中国派政党の民主建港連盟は、大物議員が次々と落選。勢力を大きく後退させた。つづく04年7月1日にも民間人権陣線は前年とほぼ同規模のデモを実現。普通選挙を求める民意の確かさを内外に顕示した。この余勢をかって、民主派は9月の立法会選挙に大量の候補者を擁立。立法会での過半数確保をめざしたが、民主派全体で6割の得票を得ながら、候補者の乱立がたたって失敗。肝心かなめの民主党にいたっては、比較第一党から第三党に転落する9議席。汎民主派(オール民主派)合わせても、全60議席中25議席にしか届かず、過半数確保はならなかった。
董長官が任期半ばでの辞意を表明したのはその翌年の05年4月。表向きは健康上の理由だが、これを額面通りに受け取る人は少ない。前年の04年12月、マカオ回帰式典に列席した董長官を、胡錦擣国家主席が「お前は思慮が足りない!」とテレビカメラが中継している前で公然と叱責し、董長官に恥をかかせたこともあった。「全国政協委員副議長」のポストこそを用意されたが、事実上は更迭という見方がいまだに根強い。
◆七・一新世代と香港政界の再編
七・一50万人デモの体験は、香港政界にさまざまな新しい風を呼び込んだ。
第一に公民起動、香港中学生連盟、七・一人民批など、これまで政治や社会の動きに無関心だった10代~20代の若者たちのグループが台頭したことだ。とくに公民起動と七・一人民批は、03年11月の区議会選挙に複数の候補者を擁立。公民起動は5人中3人を区議会に送ることに成功している。
また、香港中学生連盟は世界でも珍しい中高生の全学連。弁護士、教師などからなる大型顧問団を擁し、香港専上学生連会(大学・専門学校の全学連)とも連携する。彼らは、「世界に眼を向けよう!」、「社会に参加しよう!」と、ひろく中学生に参加を呼びかけた。
第二に、これまでの第二次天安門事件(六・四天安門事件)を原点とする在来の民主派とは異なり、七・一50万人デモを出発点とする第二世代の民主派が組織されたことだ。大学教授や弁護士など、知識分子を中心とする「45条関注組」がそれで、かれらは民主党の不振をよそに、04年9月の立法会選挙で4議席を獲得。これが母体となり、06年4月には公民党が生まれた。彼らは天安門事件追悼キャンドル集会を主催する支連会には参加していないが、七・一50万人デモを主催した民間人権陣線に参加。その政治目標には、香港に民主的な普通選挙を実現させ、法治を確立することなどを掲げる。主席に香港中文大学の關信基教授、余明徴、湯家驊、呉霞儀、張超雄、譚香文、鄭經輸、梁家傑の7人の立法会議員を擁し、立法會第四党となった。中産階級、知識分子に支持が厚い。
在来の民主派からも、06年4月、新しい政治潮流が生まれた。陳偉業、梁國雄の二人の立法会議員を擁する社会民主連戦線の旗揚げだ。彼らはデモ、座り込みなど直接行動、大衆運動を重視し、民主党を挟んで、公民党とは対極をなす。香港ではまだ確立していない最低賃金制の導入や、香港に公民権のない外国人労働者や不法滞在者の権益擁護など、社会的に弱い立場にある底辺民衆の利益を代表している。主席には評論家の黄●(毎+充の下三本)民、秘書長には前線のスタッフだった陶君行、学者の劉山青や、植民地時代の立法評議会議員だった曾健成区議会議員が参加している。
かくして急進民主派(激進民主派、民主派左翼)も一本化がなった。
公民党と社会民主連線に挾撃された格好の民主党だが、12月17日に役員改選が行われ、さきに暴漢に襲撃されて重傷を負った何俊仁(アルバート・ホー)副主席が主席に就任した。何主席は民主化運動のなかで、議会活動を重視する主流派と大衆運動を重視する少壮派との調整に腕を振るってきた実務家。民主派全体に気配りができ、親中国派にもパイプが太い。中選挙区比例代表制の立法会選挙のもと、選挙を闘うには民主派の分立も不利とはいえない。何主席には、調整役としての手腕が、いっそう求められるだろう。
中国中央政府と緊密な関係にある親中国派も、再編、整合が進んだ。親中国派最大会派の民主建港連盟(民建連)は、03年11月の区議会選挙の大敗後、曾鈺成主席が退き、左派系紙『香港商報』の雇われ社長だった馬力が主席になった。新主席のもとで背水の陣で臨んだ04年9月の立法会選挙では、候補者を絞り込み12議席を獲得。比較第一党の地位を確立した。さらに、低迷していた左派財界を基盤とする香港協進連盟(港進連)を吸収合併し、正式党名を民主建港共進連盟(略称は民建連のまま)と改称した。
そして、現行制度のままで迎えた次期行政長官選挙の前哨にあたる選挙人選挙。
公民党は梁家傑立法会議員の擁立を決め、民主党に選挙協力を求めた。民主党の李永達主席は協力を約束するとともに、他の汎民主派(オール民主派)にも支持を呼びかけると約束した。現在の行政長官選挙を「小圏子選挙」と批判する社会民主連線は選挙をボイコットしたが、それでも梁家傑は137人の選挙人を獲得した。これは、香港市民のなかに民主への希求がいかに強いかを示すものだ。
もっとも比較第一党の民建連も、第二党で財界に基盤を置く自由党も、百人を超える選挙人を獲得。かれらも行政長官選挙に挑戦する入場券を確保している。
実のところ、再選をめざす曾蔭權(ドナルド・ツァン)行政長官は、強力な公務員組織の基盤に乗っている。民建連、自由党も曾長官再選を支持すると見られ、本人が退かないかぎりは、再選は動かないだろう。
それでも、民主派が挑戦者としての立場を確保したことは、重要な第一歩なのだ。
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登録日:2006年 12月 13日 00:09:27
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- プロフィール
- 龍眼
- (男)
- 本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
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