香港のブラック・クリスマス(黒色聖誕節)-今に残る65年前の記憶-

次世代ゲームの祭典「アジア・ゲーム・ショー」開幕 - 香港

【香港 16日 AFP】次世代ゲーム機とデジタル・エンタテイメントの祭典「アジア・ゲーム・ショー(Asia Game Show)」が15日、香港コンベンション&エキシビジョンセンターで開幕した。
≫続きを読む…
(c)AFP/MIKE CLARKE

AFPBB News


画像

(写真下は、香港日本総領事館前で戦後紙屑となった香港軍票の兌換を求めて抗議する呉溢興(ン・ヤッヒン)香港索償協会主席=龍眼撮影。太平洋戦争で日本軍占領下におかれた香港では、軍票のみを唯一の法貨とする「軍票一色化政策」が推進された。このため、住民が持っていた香港ドルは回収され、隣接するポルトガル領マカオで、タングステン、麻縄などの戦争遂行物資の買いつけに利用された。戦後、「無効、無価値」となった軍票をつかまされた香港住民は、日本が国際社会に復帰した1950年代から、対日賠償請求運動を展開。68年に香港索償協会を結成。93年には日本政府を相手取り東京地裁に損害賠償請求訴訟を提訴した。01年に最高裁は上告を棄却。法廷闘争は終わったが、いまも戦争にまつわる記念日には、日本総領事館にデモ、陳情をくり返している)。

「アジア・ゲームショー」でサンタクロースに扮した香港の可憐な少女たちは、見るからに10代の中学生(中高生に相当)。半世紀以上前の戦争の時代はおろか、89年の第二次天安門事件も知らないかも知れない。彼女らは、このような平和な時代に育った幸せを、大切にすべきだろう。

 香港は65年前の1941年12月25日、日本軍が太平洋戦争で最初に占領した都市。大本営直隷下に香港占領地総督部がおかれ、日本の敗戦にいたる1945年8月まで、「三年八カ月」にわたって軍政下におかれた。65年目のクリスマスを機に、香港陥落と、その香港で敗戦を迎えた在留邦人の話題を拾ってみた。
 

◆太平洋戦争最初の占領地

 現在は「中華人民共和国香港特別行政区」という長い名前の香港は、アヘン戦争(1840-42年)以来、一世紀半以上にわたる、イギリス植民地の歴史を持つ。その香港が、太平洋戦争最初の日本の占領地で、「三年八カ月」にわたり日本軍政を経験したことは、意外と知られていない。

 1941(昭和16)年12月8日に始まった太平洋戦争。広東省深●(土+川)に駐屯していた第23軍の前線部隊は、「ハナサク、ハナサク」の無電暗号を合図に深●(土+川)河を渡り、香港に攻め入った。いまの珠海市郊外三竈島に構築した秘密飛行場から飛び立った航空機部隊は、啓德空港を空爆して制空権を確保。イギリス軍が対日戦を想定して鉄壁の護りを誇った新界の城門貯水池から沙田にいたる防御線、「ジン・ドリンカーズ・ライン」もやすやすと突破。12月12日には九龍半島全体を占領した。

 12月18日早暁に鰂魚門海峡を渡った日本軍は、交通の要衝だった黄泥涌峡(ウォナイチュン・ギャップ)を争奪戦の末に占領。赤柱と中環のイギリス軍を分断。黄泥涌貯水池の水道水栓を閉め、イギリス軍の戦意を喪失させた。かくして12月25日午後7時半、イギリス軍のカーサ・ヤング香港総督、モルトビー司令官らは、通訳のボクサー大尉を連れてペニンシュラホテルの日本軍司令部(酒井隆少将)に赴き、ロウソクの灯火を頼りに、降伏文書にサインした。香港の「香」という文字には、中国語では「死」の意味もあり、分解すると、「一+十+八+日」となる。奇しくも香港は、わずか18日の戦闘で陥落。最初の日本軍占領地となった。イギリス側はこの日を、「ブラック・クリスマス」と呼んだ。

◆大英帝国の文明に圧倒される

 海軍経理部の軍属だった鈴木敏夫(神奈川県藤沢市在住)は、広州で接収した船舶で九龍沖に待機。香港占領後、「軍経」(海軍経理部)の腕章をつけ、ビクトリア湾岸地帯の倉庫をひとつひとつ点検し、備蓄を接収して封印する業務にあたった。
                                                        中環(セントラル)の、とある建物に近づいたところ、ひとりでにドアが開いた。
「すわっ、伏兵だ!」 全員が床に伏せた。だが、銃声ひとつしない。まもなくして、ドアは再びひとりでに閉まった。狐につままれたような、日本兵たち。
おそるおそる再びドアに近づくと、再びドアが開いた。
「伏せろッ、敵兵がいる」。しかし、誰一人として現れない。
 日本軍兵士や軍属にとって、自動ドアは初めての体験だった。
あとで電気技師に調べさせたが、当時は、その仕組みは、解らなかったという。

  海岸に面した倉庫を接収したおり、段ボール箱がうず高く積まれていた。
なんだろうと、将校の一人が意を決してゴボー剣を突き立てた。
「シュワッ」と、勢い良く吹き出す気泡。
  「毒ガスだ! 逃げろ!」
あわてふためいて退く兵士たち。ところが、誰も倒れる者はいない。
まもなくして、香ばしいホップの香りが倉庫全体を充満させた。
缶ビールだった。
当時の日本には瓶ビールしかなく、缶ビールは初めてだった。
兵士、軍属たちは、英国が香港に遺した豊富な備蓄の物量に圧倒されていった。

 実際、占領地香港では、日本酒こそなかったものの、ビールとスコッチ・ウイスキーは不自由しなかったという。香港の日本人は、内地の「銃後」とは異なり、「三年八カ月」にわたって、比べ物にならないほど豊かな物質生活を享受していた。

◆グランドピアノの婦人

 鈴木らに割り当てられた宿舎は、ハッピィ・バレイの競馬場に近い藍塘道にあった三階建ての白亜の洋館。グランドビアノがあり、浴室には水洗トイレとビデが備えつけられていた。ところが兵士たちには、ビデが何に使うものなのか判らない。将校のひとりは、毎朝、これで顔を洗っていた。

台所には大量の黄色い固まりがあった。石鹸だと思って使ってみたが、泡が出ない。
「イギリスの石鹸は性能が悪いなー、やはりわが大日本帝国のモノの方が良い」などと愚痴をこぼす兵士たち。
  じつは石鹸などではなく、チーズの塊だった!

 ある日、鈴木らが暮らしている洋館に、上品そうな中年婦人が訪ねてきた。
「あのビアノは私のものです。返して下さい」と懇願する婦人。
鈴木は気の毒に思ったが、上官の許可無くして、自分の一存ではどうにもできない。
あまりにも哀れに思い、「ここに来てピアノを演奏するのは構わないが、お返しするわけにはいかない」と説明すると、婦人はとても悲しそうな顔をして、すごずごと帰っていった。

 戦後、鈴木は観光ツァーで一回だけ香港を再訪している。自由時間を使い、鈴木は意を決してタクシーに飛び乗った。憶えていた片言の広東語を使って、かつて暮らした藍塘道にある白亜の洋館をめざした。
 洋館は昔のままだった。戦時中と変わらない閑静な佇まい。特徴のある螺旋階段も昔のままだった。白亜の壁には新たに「卍」のマークが描かれていた。どうやら宗教団体が使っているらしい。なかの様子を伺うと、人の気配があった。今にも人が飛び出して来そうな気がして、鈴木は怖くなって一目散に坂道を転げ落ちるように駆け下りた。
 洋館が見えなくなるところまで駆け抜け、息をぜいぜいと切らせて、しゃがみ込んだ。

香港返還の年。すでに現役を退いていた鈴木敏夫を訪問して昔話を伺ったことがある。しばらくして、龍眼に宛てたハガキの文面には、このように記されていた。
「すまなかった。時代が悪かった」。

戦後、苦労を重ねて食料品卸会社の経営者として成功した鈴木。香港での戦争体験は、誰にも理解してもらえなかった。あの婦人にピアノを返せなかった贖罪意識が、その後も鈴木を苦しめた。戦後半世紀を経て、香港返還の年。それを告白できる人がようやく目の前に現れた。

◆人減らし政策の犠牲者たち

 軍政下の香港では、軍用手票(軍票)が強制され、香港ドルを隠し持っているのが見つかると、憲兵隊に銃剣でこっぴどく殴打された。その軍票とて、日本の敗色が濃くなるにつれて信用がガタ落ち。まともに食糧と交換してもらえない。食いつめた若者たちは、大陸浪人たちが経営する合記公司などの手配師たちに騙され、海南島の鉱山開発へと送られていった。その多くが、かの地で疫病に倒れ、二度と香港の土を踏めなかった。

 香港占領地領地総督部(磯谷廉介総督)は、治安を安定させるため、手当たり次第に難民を広東省に送り返す「強制疎散政策」を行った。難民を送還した中継地のひとつ、広州市郊外の南石頭難民収容所(国民党政府時代の監獄施設を転用したもの、現在の広州オートバイ工場)では、南支派遣軍防疫給水部(波8604部隊)が配給の粥にゲルトネル食中毒菌を投入。多数の難民が亡くなった。戦後、近くの広州製紙工場建設のおり、大量の白骨死体が見つかったことがある。近隣に死体の運搬にあたった証人が生存しており、当時の難民を埋葬した場所だったことが判明した。(広州市社会科学院、沙東迅の一連の論文参照)。

 波8604部隊の軍属だった丸山茂(東京都中野区在住)は、戦後、現地を訪問して住民たちに謝罪した。私財を投じ、現地に「粤港難民之墓」と揮毫した追悼墓を作った。広州製紙工場の従業員アパートの片隅にあるそれは、住人たちにもその経緯を知る人は少なく、今はほとんど訪れる人もいない。

 現在の香港人の多数を占める中国系住民のうち、日本軍政時代を経験した人々は、もはや一握りに過ぎない。だが、広東省各地、ひいては中国各地から難民潮として香港に足を踏み入れた彼らの出自をたどると、祖父母の世代には中国各地で日本軍に遭遇。ある者は家を焼かれ、またある者は家族を殺されり身体を凌辱された癒しがたい記憶を持つ。

戦後、香港では日中関係が緊張するたびにいくだびとなく、反日デモや日貨排斥(日本商品不買)運動が起こった。これらには、相応の根拠と背景がある。

◆香港で敗戦を迎えた日本人たち

 1941年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾。連合国に無条件降伏した。翌15日の玉音放送は、香港でもラジオ中継された。香港では8月10日頃から、街中で、「和平来了!」「和平来了!」と狂喜乱舞する中国系住民たちの姿があった。いち早く、密かに受信した短波放送で事態を知っていたのだ。そして、占領者と住民たちとの関係は、一夜にして逆転した。

香港憲兵隊庶務課長として敗戦を迎えた仲山徳四郎(故人)は、当時の様子をこう記録する。

 (玉音放送を聞き、金沢中佐の訓示を聞いて)私はこの瞬間、玉砕は免れた。生きて故国の土を踏むことができる。いや首が飛ぶだろう。悲喜こもごもの感情が脳裏をかすめた。…とくに狼狽した連中は、特高課長以下外事関係者であった。このままでは絶体絶命との判断で、これらの者は数日後、それなりに別行動(引用者注: マカオへ脱出)をとった。…現地招集兵2~30名の招集解除が行われた。これらの者に一人米一袋(麻袋)その他の物品が支給されていた。…彼らは帰還途中、華人等に全部奪取されたとの話であった。日本人家屋からの略奪品であろう。戸障子を担いで歩く華人、華人同志で拳銃を突きつけて強奪する者も見えた。2階から見える白昼の公然の事犯であった。…次第に日本人の生命は危険となり、個人の外出は自粛、接収軍の上陸、武装解除されるのを待つのみとなった。(仲山徳四郎『私記・香港の生還者』1978年、国立国会図書館蔵)


 残った憲兵隊員らは、イギリス軍による再占領ののち深水●(土+歩)の捕虜収容所に収監された。さらに仲山は、「ナカヤマ(中山)」姓の兵士が行った戦犯の容疑で、赤柱監獄に収監された。監獄ではイギリスの看守たちから、報復的な虐待を受けた。(仲山前掲書)

 香港華人基督教會顧問だった鮫島盛隆は、他の民間人とともに九龍公園にあったインド兵用のバラックに収監され、のちに赤柱の聖士提反書院(セント・スチィーブンス・カレッジ)に移動させられた。船舶が不足し、日本への帰還船はなかなか来ない。鮫島らが帰国できたのは、1946年1月、イギリス船サム・ドントレス号でのことであった。(鮫島盛隆『香港回想記-占領地の教会に召されて-』大阪創元社1970年、私家本)。

戦犯の容疑がかけられた仲山は、高等法院(現在の立法會大樓)で、イギリス軍が主宰する香港法廷(BC級戦犯裁判)にも出廷させられている。幸いにして仲山は人違いと判明、身の潔白が証明された。1947年4月、ようやくの思いで帰国したが、故郷の秋田県横手市では、「おめーは、戦犯じゃ」という住民たちの偏見の目に苦しめられた。仲山は赤柱監獄に収監されていた時期、密かにトイレット・ペーパーに獄中日記を綴っていた。戦後これを、『私記・香港の生還者』として自費出版した動機には、自らが受けた不条理を明らかにし、その汚名をはらしたいという強い思いがあったのではないだろうか。

戦争体験は、それぞれの人生にさまざまに影響を与えたのである。(文中敬称略)

カテゴリー[ 香港 ], コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 12月 25日 13:12:39

コメントを追加

Trackback

この記事に対するトラックバックURL:

カレンダー
< 2006年 12月 >





1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31





プロフィール
龍眼
(男)
本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
検索