三つの六・四天安門事件追悼集会-香港・マカオ・台北それぞれの六・四の過ごし方-
【香港 4日 AFP】香港のビクトリア(Victoria)公園で4日、1989年の天安門事件に抗議する数千人が、夜通しの犠牲者追悼集会を行った。この事件では、6週間続いた民主化要求デモの鎮圧に中国人民解放軍(People’s Liberation Army)が介入し、数百とも数千人とも言われる一般人が射殺された。写真は、集会でろうそくを掲げる少女。(c)AFP/TED ALJIBE
今年も六・四天安門事件追悼キャンドル集会の季節がやってきた。この日決まって報道されるのは、十七年前に惨劇がおこった北京の天安門広場の平穏な風景と、香港の六・四天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会。キャプションでは「数千人」と控えめな表現だが、主催者発表の「4万4千人」はともかく、今年も2万人ほどは集まっていた。(香港警察は1万9千人と発表、香港返還の1997年以降、董建華行政長官執政時代は、警察は六・四集会の参加人数を発表していない)。
平日週末を問わず、晴雨にかかわらず、毎年飽きもせず、夜遅くまで集会を続けてきた香港市民には、本当に頭が下がる思いだ。
今年は日本のメディアの多くが、六・四集会を取材、報道しなかった。
タネを明かせば、手が足りなかったのだ。香港返還後、報道各社の香港支局の役割はいわば「アジア遊軍」。インドネシアのジャワ島でおこった地震取材に駆り出され、六・四集会取材どころではなかったはずだ。
ところで、香港の六・四集会には、毎年どのような人々が集まり、どのような時間を過ごしているのかご存じだろうか? 同じテーマの集会は、旧ポルトガル領の中華人民共和国マカオ特別行政区や、中華民国(台湾)の台北でも毎年行われている。報道では伝わってこない、6月4日夜の過ごし方をじっくり紹介したい。
◆ビクトリア公園で行われるキャンドルと音楽の夕べ-香港-
香港有数の繁華街コーズウェイベイ(銅鑼湾)の埋め立て地にあるビクトリア公園は、香港島北側を横断するMTR(地下鉄)港島線の銅鑼湾駅、天后駅から徒歩数分。公園の中には六面のサッカー場があり、市街地で数万人規模の集会を行う絶好のロケーション。
六・四天安門事件犠牲者追悼キャンドル集会(六・四集会)を主催する香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会 http://www.alliance.org.hk)は、中国の民主を求めて北京の天安門広場に座り込んだ学生、労働者たちを戦車部隊によって蹂躙した1989年の第二次天安門事件の惨劇に衝撃を受けた香港市民が立ち上げた横断組織。以来、海外の民主勢力とも連携し、祖国中国の民主的発展の実現を願い、さまざまな活動を行ってきた。毎年その天王山に位置づけられるのが、この六・四集会だ。
六・四集会の日取りが近づくと、支連会は香港各地で祖国中国の現状に関する討論会や、さまざまな街頭キャンペーンを行う。そして六・四集会の一週間前の土曜日(今年は5月24日)には、ビクトリア公園からセントラル(中環)まで、数千人規模の「遊行」(デモ)を行い、天安門事件の見直しと、六四集会への参加を呼びかける。このデモの参加人員の多寡で、その年の六四集会の参加者の増減はおよそ予測がつく。その時点での民主派の勢い、力量をはかるバロメーターになるのだ。
六・四集会は毎年午後8時から開始され、夜10時過ぎに終了する。あまりに遅い開始に驚かれる御仁も多いと思われるが、香港は亜熱帯で高温多湿。デパートも夜22時近くまで営業している。夕陽の落ちない夕方6時ではまだ暑く、「キャンドル集会」には明るすぎる。六・四集会は「花火大会」のノリで考えた方がぴったりなのだ。
六月四日当日。人工芝が剥がされたビクトリア公園サッカー場には、大型スクリーンとステージが組み立てられる。中央のビクトリア女王座像近くには、六・四天安門事件で犠牲となった人々を追悼するジャンボ位牌が据えられた。さらに銅鑼湾寄りには、天安門広場で学生たちの象徴となった民主の女神像が微笑む。
夕方には支連会の若者たちの売店がオープンした。取り扱われている商品は、Tシャツやステッカー、VCD、音楽CD、書籍などの民主グッズ。なかには「民主の女神像」のミニチュアもあった。売られている書籍にもその年のトレンドがあり、今年なら、さしずめ昨年中国当局にスパイ容疑で逮捕されたばかりのシンガポール紙記者の程翔(香港人)に関する書籍が売れ筋。中国当局の発表では程翔はスパイ容疑を認めているとされるが、そもそも程翔は香港左派(親中国派)のジャーナリスト。決して民主活動家ではない。
この売店が開かれる時分になると、ステージの大型スピーカーからは香港の民主運動で歌い継がれてきた「血染の風采」、「お祭り男(祭好漢)」、「自由のために」、などの歌曲のテープが流れてくる。数年前からは、同じビクトリア公園の一角で、カトリック香港教区正義と平和委員会などによる直前祈祷会も開かれるようになった。今年はローマ法王によって枢機卿に任命されたばかりの陳日君香港教区主教(本blog5月7日参照)が出席。その動向に香港マスコミの注目が集まった。
今年の六・四集会は日曜日。もっとも、それが平日だろうと、週末にあたろうと、集会の開催には変わりがなく、毎年同じ日の同じ時間に始まる。夕方ともなると、ビクトリア公園の各入り口には支連会のボランティアが立ち、歌詞入りのプログラムと、風除けの小さな紙フードが付けられたロウソクが配られる。今やタレント議員となった急進民主派の立法会議員、長毛こと梁國雄(本blog4月29日参照)がマイクを握るのも恒例行事。場所は銅鑼湾寄りのシュガー・ストリート(糖街)に接した公園の入り口。在留邦人女性にも長毛ファンが少なくないと聞くが、ここに来れば、長毛に親しく拝謁し握手することができる。
本格的に人々が集まってくるのは、夕陽が落ちる午後7時半過ぎ。日本の政治集会のように隊伍を組んで入場してくるような人はいない。家族連れや高校生のカップルなど、思い思いに、バラバラな格好で集まって来る。そして、集会が始まるまでステージ上では、六・四天安門事件以来、中国や香港の民主運動で歌い継がれてきたさまざまな歌曲の歌唱指導が行われている。
午後8時すぎ、いよいよ集会のオープニング。
前方の大型スクリーンに1989年6月4日の天安門広場の衝撃的な映像が映し出された。固唾をのんで見入る人々。参加者のなかには家族連れも多く、天安門事件を知らない若い世代も増えてきた。なにしろ17年前の出来事。小・中学生はまだこの世に生まれていなかった。会場のあちこちで、父親、母親が、幼い子どもに寄り添い、スクリーンを指さしながら天安門事件の顛末を説明している。
続いて追悼歌の「江河の水」が流れる。香港民衆運動の生き字引、司徒華(シトワ)主席が率いる支連会常務委員約20名が現れ、花輪を持ち、会場中央に設けられた「民主烈士永遠不朽」と大きく書かれたジャンボ位牌に向かって進み出、花輪を手向けた。
かん高い声で「一献、二献、三献」と号令がかかる。常務委員たちは三顧の礼を行い、しずしずとひきさがる。
その後、司徒華主席と常務委員たちは、今度は松明を持ってステージに登壇した。香港の子どもたちから選ばれたという一人の児童が持つ松明に、還暦以上の年の差がある司徒華主席が手を添える。ステージ上の聖火台に点火する瞬間だ。オリンピック開会式のノリで考えると、イメージできるだろうか?
つづいて司徒華主席が犠牲者を追悼するスピーチをおこない、今年の六・四集会の開会を宣言。そして天安門事件犠牲者に1分間の黙祷。
このあとは1989年6月3日に子息を虐殺され、その後「天安門母親運動」(天安門事件遺族会)を組織した丁子霖北京大学哲学系副教授(女性)の映像メッセージがスクリーン上に大写しされた。ふだんは広東語しか話さない香港人だが、中国標準語のメッセージを必死に聞き取り、画面を食い入るように見つめている。
その後、集会は歌声集会の様相となる。まずは「歴史の傷口」を合唱。つづいて「天安門母親運動」からの呼びかけの朗読。天安門事件後、海外に逃れた民主活動家、王丹(ワンタン)の映像メッセージも紹介された。そして再び、「自由の花」の合唱。
集会には老若男女の参加がある。支連会青年部の代表は、「香港の若者は、六四天安門事件の真相を知る権利がある」という元気な宣言文を発表した。続いて「中国の夢」の大合唱。
最後に、李卓人常務委員(立法会議員)が大会宣言を読み上げた。ステージ上には支連会常務委員たちが一列にならんでいる。彼らはそれぞれ六・四天安門事件の犠牲者名簿を手にして聖火台に近づき、次々と名簿を燃やし始める。舞い上がる火の粉。まともに火の粉を受け、「あっちっちっ」と身をすくめる支連会の常務委員たち。その多くはいまや立法会議員(国会議員)となった。その間、参加者たちは「英烈たちを祀る歌」を歌い続ける。六・四集会はこうして幕を閉じた。
参加者はこのあと三々五々家路につくが、感心するのは香港市民の行儀の良さ。会場のあちこちで、金属や竹のスクレーパーを手にした男女が、サッカー場の路面にこびりついたロウソクのカスを丁寧に掃除している。ゴミを拾うスタッフも。
いっぽう、学連(香港専上学生連会、つまり大学生と専門学校生の全学連)の青年たちは、公園の片隅で、後段の討論集会を始めた。六四10周年の1999年には、学生たちは会場に据えられていた「國傷之柱」を深夜の無届けデモで香港大学構内に運び込み、徹夜作業で学生会館前の黄克競平台(学生広場)に据えつけたことがある。
「 國傷の柱」はデンマークの彫刻家、イエンス・ガルシオットが天安門事件の犠牲者をイメージした彫塑モニュメント。深夜デモも異例だったが、クレーンなしでの設営作業も異例ずくめ。建築現場の経験がある長毛が指揮を執り、パートナーの古思堯らが、上半身丸裸になって大学校舎の階上に登り、学生たちを指揮してロープを引っぱった。
難航した作業だったが、「國傷之柱」が黄克競平台に立った時、香港の夜は白みはじめていた。朝もやのなかに摩天楼のような香港市街のビル群が浮き上がってくる。朝日がまぶしかった。そして、立ち上がった「國傷之柱」とは対照的に、周りには連日の六・四行事で疲れ切っていた学生たちが、死んだように眠りこけっていた。
今も香港大学の「黄克競平台」には、「國傷の柱」(恥辱のモニュメント)が堂々たる威容でそびえ立つ。旅行ガイドにはまったく載らないが、「國傷の柱」は、知られざる香港観光の新しい名所となった。
支連会は毎年、六・四集会会場で四輪を付けたカンパ箱を巡回させ、市民から浄財を集めてきた。その募金の多寡は、その年の景気動向、六四集会の参加人数、その時期の民主派の勢いにも左右される。ところが、1997年の香港返還以降、このカンパ箱の中身に重大な変化が起こっているのをご存じだろうか。
金額こそ僅かだが、中国の「人民元」によるカンパが年々増加しているのだ。いまや香港観光の屋台骨を支えているのは日本人団体客に代わって、中国人観光客。彼らのなかに、ひそかに六・四集会に参加し、祖国中国の民主的発展を願い、「人民元」を投ずる人が少なからずいるのだ。
◆セナド広場で催される深夜の討論集会-マカオ-
1999年12月20日にポルトガル植民地から中国に返還されたマカオでも、毎年小規模な六・四集会が催されている。会場はマカオ最大の観光名所、セナド広場に面した玫●(王偏に鬼の旁)堂前。参加者は百人にも満たないが、香港よりはるかに民主派の生存空間が狭いマカオで、六四集会が毎年続けられてきたこと自体が奇跡のように思える。
マカオの六・四集会は地元民主活動家の横断組織、マカオ民主発展連会の主催。その中心にいるのは、マカオの立法会議員(国会議員)をつとめる呉國昌(ウー・コックチョン)と區錦新(アウ・ガムサン)。二人はカジノや観光などの背景を持つマカオ財界や、街坊組織を基盤に持つ保守的な伝統左派勢力と競い合い、直接選挙枠を高得票で征した民主派議員だ。
ただし、全体で29議席あるマカオ立法会(マカオの国会の相当する議会)で、民主派議員は彼ら2人だけ。過去にさかのぼれば、2001年までは呉國昌ひとりだった。その呉國昌さえ落選して、民主派議員が皆無だった時期もある。マカオの民主派の中軸をなす民主新マカオがマカオ社会に基盤を確立したのは、1990年代の半ばすぎ。たった一人で頑張ってきた呉國昌議員の、マカオ市民に対する献身的な働きぶりが評価されたからだ。
数年前、たまたま六・四集会前日の6月3日に日本の友人たちをマカオ観光に案内したことがある。偶然に呉國昌の街宣車を見かけ近づいてみると、翌日の六・四集会への参加を呼びかけている真っ最中だった。運動員は呉國昌ひとり。白い小さな自家用車に、トランジスタメガホン一つ。のろのろと車を走らせながら、街ゆく人々に六・四集会への参加を呼びかけていた。ところが、呉國昌に声をかけ、車内を覗き込んでびっくり。彼は助手席に乳飲み子を寝かしつけていた。
妻の江洵美は多忙な大学教員、いきおい時間の融通が効く呉國昌議員が、子育てを分担しなければならない。マカオの民主派議員は、「子連れ議員」でもあった。
マカオ民主発展連会は、呉國昌らが属する民主新マカオ以外は、立法会選挙に候補者を出しても泡沫に終わる小さなグループばかり。それでも毎年六・四集会の日が近づくと、彼らは協力しあいセナド広場の一角に第二次天安門事件の惨劇を伝える写真や新聞記事などを張り付けた手作りのパネルを並べる。毎年一回、マカオ市民に、祖国中国で起こった17年前の惨劇を思い起こしてもらうのだ。
マカオは人口50万足らず。マカオ半島部と、タイパ島、コロアン島を合わせた面積は、東京都の品川区程度。「ムラ社会」ともいわれるマカオだから、情報の伝達も早い。澳門を代表する繁華街、セナド広場で行われている展示は多くの人々の目に触れる。もっとも、マカオ政府当局がこうした展示を許容しているのも、香港と同じくマカオにも「一国二制度」(社会主義中国の中でマカオ市民に外交防衛以外の高度な自治を委ねる)があるためだ。
さて、マカオの六・四集会も香港と同じく午後8時に始まる。定刻ぎりぎりに玫●(王+鬼)堂の前に集まった彼らは、まず「民主烈士永遠不朽」と墨で大きく書かれた真っ白な横断幕を路上に広げ、まわりをたくさんのロウソクで囲んだ。ロウソクはまもなく点火され、白い横断幕はバースディ・ケーキのようにセナド広場に浮かびあがった。まもなく、参加者にもフードつきのロウソクと、座布団がわりに使う段ボール板がゆきわたった。玫●(王+鬼)堂側に坐った呉國昌と區錦新が開会を告げる。
集会は持ち込まれたテレビで、1989年の惨劇のビデオを上映。ところが、龍眼が参加した年には、マカオ政府当局が集会への公共の電力供給を認めなかった。やむなく持ち込んだ自家発電機は力が弱く、映像は途中でしばしば途切れた。アンプの調子も悪く、マイクの音も途切れがち。それでも百人にも満たない参加者たちが、誰一人として愚痴ひとつこぼさなかった。
今年のマカオ六・四集会では、黙祷に続き、呉國昌の「議程前発言」(基調報告)が行われた。呉國昌は、マルコス独裁政権が崩壊した20年前のフィリピンや、文化大革命の血なまぐさい粛清が猛威を振るった40年前の中国の歴史に言及。いかなる人々も歴史と切り離しては存立しえないとして、中国で六・四天安門事件が見直されるのは、歴史の必然だと参加者に語りかけた。(新澳門学社ホームページ http://newmacau.org/)
実のところ、マカオの六・四集会の参加者はわずか数十人。あたりを見渡すと、遠巻きに監視している制服、私服の警察官のほうがはるかに多い。これでは、マカオの六・四集会に参加するにはかなりの勇気が必要だ。
もっとも、この集会参加者の数だけを見ただけで、マカオ民主派の力量をわずか数十人などと過小評価するのは短絡だ。実際、昨年の立法会選挙で民主新マカオは2万票以上を集め、現職二人を当選させ、さらに三議席目をうかがう勢いだった。その4年前の2001年の立法会選挙でも、民主新マカオが1万数千票を獲得して直接選挙区トップとなり、当選した呉國昌は地元マスコミに、「票王」と絶賛されていた。
民主新マカオのリーダーをつとめる呉國昌は、中国内地の孤児出身。子どものない貧しいマカオ女性が養母として引き取り、大切に育てられた。小中学校で卓越した秀才ぶりを発揮した呉は、台湾大学の工学部に合格。しかし学資不足で進学を断念し、翌年、奨学金で香港中文大学に学んだ。学生時代はまじめな伝統左派(親中国派)の活動家。大学卒業後はマカオ有数の中国系銀行でディーラーとして頭角を現し、地元財界からも一目置かれる存在だった。もっとも、1989年の天安門事件に衝撃を受け、天安門広場の学生たちを公然と支持して職を失い、一時はカリタスマカオの教会で聖職者をつとめていた時期もある。しかしこれも中国政府筋からの横やりで失職。その後は何回も選挙に挑戦し、血の滲むような努力をして現在の地位を確立した。
過去に神父をつとめたこともある呉國昌はマカオで圧倒的な力をもつカトリック教会に基盤があり、知識分子や中産階級にも厚い支持がある。民主派に転じたため、ながく困難な半生を歩んだが、呉國昌の人物に対する信望、評価は高い。
民主新マカオに票を投じた2万人あまりの支持者がセナド広場の集会に姿を見せないのは、マカオの民主派が置かれた政治的環境が、香港のそれとは比較にならない困難な状況に置かれているからにほかならない。大都市で、民主派の層が厚い香港とは異なり、「ムラ社会」とも言われるマカオで、公然と顔を出して民主化運動をすることは、さまざまな不利益、不条理を甘受しなければならない。マカオの六・四集会を取材したおり、参加者は写真を撮られるのを嫌がり、龍眼のレンズから顔をそむけていた。たとえ外国メディアであろうと、民主派の集りで顔が写ることは思いがけない不利益の原因となる。それでも六・四集会に参加したのは、たいへんな勇気をふりしぼっての参加なのだ。
さて、マカオの六・四集会では、香港の六・四集会のプログラムには数多く見られた歌曲の合唱は少ない。集会が佳境にはいると、参加者は車座になって天安門事件と中国の現状をめぐる討論会に移った。呉國昌と區錦新が交代で司会をつとめ、誰しもが臆面もなく手を挙げ、自由に発言する。集会は夜10時を過ぎても延々と続き、主催者が解散を宣言したのは深夜12時過ぎ。マカオはとても狭いから、こんな時間に集会が終わっても、家路には不自由しない。アット・ホームな六・四集会だった。
マカオの六四集会は、香港のそれのようなショーとしての華やかさは期待できない。だが、舞台は2005年に「世界遺産」に登録された歴史と文化の街。香港にはぜったいに真似のできないロケーションだ。私服警官に周りを二重三重に取り囲まれ、セナド広場の奥まった場所に封じ込められての開催だが、深夜まで真剣に語り合う彼らの姿には、心底うたれた。参加者ひとりひとりの意見表達を重んじるマカオ民主派の作風は、香港の民主運動のような、「民主明星」(民主派のスター)はいないが、この作風こそ、マカオ民主派の持ち味なのだ。
討論を重んずるマカオ民主派の作風は、立法会でもいかんなく発揮されている。立法会における2001~2005年の全議員の質問回数は合計576件だが、このうち區錦新議員の質問回数は222件、呉國昌議員の質問件数がそれに続く188件。残りの25人の議員合計が186件。わずか二人の質問件数が、全議員の3分の2を占める。ひとりで10人力、ふたりで20人力の奮闘ぶりだ。
じつはマカオ特区政府も、民主新マカオの政策立案能力に一目置いている。年間100件以上200件近くのマカオ政府の施策に、民主新マカオの政策が反映しているというから、彼らの議席以上の働きは間違いない。このように、民主新マカオは、観念的な民主化要求にとどまらず、マカオ市民の民生要求を重んじ、実現可能な政策提言を続けてきたからこそ、極小勢力ではあっても認められてきた。彼らの政治的生存空間はきわめて小さいが、果たしてきた役割には力量以上のものがある。
◆馬英九国民党主席も毎年出席!-台北-
六・四集会は、形態、規模こそさまざまだが、米国や日本でも行われており、台湾の台北でも毎年六・四集会が催されている。
毎年台北で開催されている「六・四記念座談会」の今年の会場は師範大学の国際会議場。形態はシンポジウム、開催時間も午前中と、香港やマカオとはかなり異なる。この台北の集会だけは、過去から現在にいたるまで、龍眼は1回も参加したことがない。地元報道をもとに、再現してみよう。
今年のパネラーには汪岷『中国之春』雜誌社社長などの海外在住民主活動家(民運人士)のほか、林濁水民主進歩党立法委員や国民党主席の馬英九台北市長など、台湾を代表する与野党政治家も顔をそろえた。とくに馬英九台北市長は、毎年出席している台湾六・四集会の常連さんだ。
馬英九国民党主席は、「台湾は40年の時日を経て、ようやく二・二八事件の誤りを認め、犠牲者の家族をいたわるようになった。いまの中国はかつての台湾とは比較にならないほど通信、情報伝達が早くなっている。私は、中国が六四天安門事件を見直す時期は、台湾が経験した歴史より早く到来すると信じている。民主改革は経済発展を疎外しない。 中国当局は民主改革を恐れるべきではない」。と発言して注目された。
日本植民地時代には日本語で文学作品を書いてきた林濁水民進党立法委員(国会議員)は、「中国は中央集権のもと、「官倒」とよばれる官僚の腐敗堕落、利権濫用が横行していたため、(民主化を要求する)六四天安門事件が起きた。台湾の民主とて、成功したとは言い難いが、まがりなりにも民主を享受している。私は中国が民主化し、台中両岸の人々が幸せになれるよう希望している」と発言した。(2006年6月4日、中時電子報)
前出の馬英九国民党主席は今年、シンガポールの『連合早報』紙の単独インタビューに応じ、(台湾と)大陸との和解の前提は大陸の民主化が前提になるとの見方を示している。馬主席は、中国で言論弾圧を受けた『氷点』誌の顛末を例にあげ、「いったん停刊処分を受けた『氷点』が、編集長は更迭して再び復刊した。これは海外や民間の抗議の声が胡錦濤(国家主席)に届いたからだ。まだまだ私たちの期待する水準には遠いが、このようなことは十数年、二十年前にはまったく考えられなかった」(2006年2月27日『連合早報』)と述べ、最近の中国で起きている微妙な変化に期待を寄せた。(注:『氷点』の問題については、李大同『「氷点」停刊の舞台裏-問われる中国の言論の自由-』日本僑報社)
シンガポールのメディアが中国の言論問題に敏感なのは、香港出身のシンガポール紙記者、程翔がいまだに拘束中の身にあるためだ。中国国内では、『南方日報』と『光明日報』が出資して北京で発行している大衆紙『新京報』も、当局の弾圧を受けて編集長らが更迭される事件があった。この時は記者たちが異例のゼネラル・ストライキ(無期限スト)に入った。編集長の更迭は撤回されなかったが、記者たちはそのまま復職。『新京報』の停刊は免れている。同じような騒ぎは『新京報』に編集長を出していた広東省の『南方日報』でもほぼ同時に起きている。当局の一方的な言論弾圧に対して記者たちが屈せず、双方の痛み分けに終わったのは、中国当局が、内外の世論の動向を重視している証だ。
香港、マカオ、台北。、それぞれの社会事情の制約のなかで、毎年続けられてきた六・四集会。これらの営みが、ただちに中国の第二次天安門事件評価の見直し(平反六・四)につながることはありえないが、それでも彼らは諦めず、六・四集会を続けてきた。
彼らの熱い眼差しを一身に受けてきた中国は、いまやWTOにも加盟し、「世界の工場」とも形容される実質的な資本制社会に変貌した。当局も世論の動き、民意にかなりの注意を払うようになっている。政治、社会に変化の兆しは、確実にある。
中華世界には、多元的、民主的な社会を望む声が少なからずある。香港、マカオ、台北。来年も、そして再来年も、彼らは六・四集会で再会する。
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登録日:2006年 06月 13日 07:06:49
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- プロフィール
- 龍眼
- (男)
- 本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
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