どの社も報じなかったマカオの「血のメーデー」事件-返還後最大の流血事態-

メーデーで最低賃金と最長労働時間制限を要求 - 香港

【香港 1日 AFP】香港で1日、メーデー(May Day)の記念集会が開かれ、労働者らが香港政府に、最低賃金と最長労働時間制限の法制化や、労働者のための保護政策の改善を要求した。写真は1日、メーデー行進に参加し、横断幕を掲げる労働者の子供たち。(c)AFP/TED ALJIBE

AFPBB News


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  写真は香港でおこなわれた5月1日メーデー(労働節)のデモ風景。こどもたちの後方の横断幕(横幕)には、「パパ!ママ!いつになったら帰ってくるの? どうしてご飯がないの?」という悲痛な叫びが書かれている。その上に書かれている「工盟」というのは、香港職工会連盟という民主派系のローカル・センターの略称。立法会(国会に相当)に、李卓人(カトリック)と、劉千石(プロテスタント)という二人の直接選挙で選ばれた議員を出している。香港にはこのほか、香港工会連合会(工連会)という強力な左派ローカル・センターもある。
 イギリス植民地時代から「レッセ・フェール」とよばれる自由放任経済で多くの資本を集めてきた香港は、法人税が安いなど、企業家保護は徹底しているが、対照的に労働者保護は弱い。最低賃金制がないため、低所得者は生活のために長時間労働を強いられている。このため、「香港の労働者は見た目は豊かな生活をしているが、じつは世界一ストレスをためているのだ」、という指摘もある。
  いっぽう、香港のお隣の旧ポルトガル領マカオでは、1999年12月20日の中国返還以来、四半期ごとのGDPが20パーセントを優に超えるという空前の好景気が持続している。ところが、絶好調かと思いきや、今年のメーデーでは、「外労反対」(マカオ域外からの労働力導入反対)を叫ぶ2000人あまりの労働者が暴徒化。警官隊の阻止線を突破して政府ビルになだれ込むという、返還後最大の流血事態に発展していた。
  日本語媒体がことごとく無視した、マカオの「血のメーデー」事件の深層を追った。    

◆マカオ返還後最大の流血事態

事件は今年5月1日、メーデーのデモ行進から始まった。
日本のメーデーのように、交通費・弁当などの動員手当が付くわけでもないのに、今年のマカオのメーデーは、例年より多い2000人を超える人々が参加。参加者には「外労反対」の標語が目立ち、とげとげしい印象だったという。
「外労反対」とは、中華人民共和国マカオ特別行政区(旧ポルトガル領マカオ)に出稼ぎに来ている中国大陸からの労働者を排除するスローガン。1999年12月20日の祖国回帰以後、マカオと広東省各地とをわけへだてたボーダーが緩和され、拱北(ゴンパ)関門を往復する中国からの出稼ぎ労働者(民工)が目立つようになった。なにしろ、彼らは低賃金でよく働く。このため、より賃金の高いマカオ人労働者が職場から締め出される事態があちこちで発生していた。
兆候はあった。昨2005年に実施されたマカオ立法会選挙では、親中派、中立系、民主派を問わず、「外労反対」のスローガンを前面に押し出して選挙戦を戦うグループが多かった。今年3月はじめにマカオに立ち寄ったおりにも、セナド広場近くに事務所を構える友人が、「今、大きなデモが通過したばかりだ」と、興奮気味に話していた。人口わずか43万人のマカオ。1000人も集まれば大デモだ。そんななか、「こんなに大きなデモを見たのは初めて」と興奮していた友人。デモの理由を問いただすと、「外労反対」のデモだったという。マカオは政治の季節を迎えていた。
今年5月1日。恒例のメーデーのデモ隊は、マカオ旧市街に近い内港沿いを進み、途中で新馬路(サンマロ)に入り、リスボアホテルのある新口岸方面に向かうコース。ところが、新馬路半ばのセナド広場にさしかかったところで、デモ隊の一部が警官隊と激しく揉み合った末、セナド広場に乱入してしまった。
セナド広場はマカオの中枢をなす業務地区であると同時に、市政庁、図書館、郵便局、仁慈堂など、ポルトガル入植以来の歴史的建築物が林立する。昨年には世界遺産にも指定され、マカオ政府は各地で観光プロモーションの真っただなか。当局はデモ隊をセナド広場に絶対に入れたくなかった。
デモ隊の一部がセナド広場に乱入したため、規制の警官隊が暴力を振るった。デモ隊は警官の暴力に抗議し、その場に座り込んでしまった。さらに一部のデモ隊は、「外労反対」の陳情書を特区政府に直接届けるとして、平安戯院(映画館)の横町の阻止線を突破して南湾路になだれ込み、阻止しようとする警官隊と激しく揉み合いながら、マカオ特区政府ビル(旧マカオ総督府)まで到達したのである。
この過程で警官隊は20数名が負傷。デモ参加者のけが人はさらに多く、1999年12月のマカオ返還以来、最大の流血事態となった。当局は激化を煽動したとして、男女4名を現行犯逮捕した。

◆史上空前の好景気の陰で…

いまマカオは史上空前の建設ラッシュ。南湾にはマカオタワーが完成。マカオ大学やマカオ国際空港があるタイパ島には、新たに「漁人埠頭」(フィシィング・ピア)も完成。テナントも入り、ヨットハーバーや世界各地のレストランなど、新しい魅力を加えた。
カジノ、カラオケなどが林立し、「マカオの六本木」の異名もある新口岸一帯には、新たにカジノ・サンズがオープン。マカオのカジノは、返還前の一社独占から米国資本なども交えた三社鼎立の競争となり、さらに刺激的なスポットとなった。
ホテル・ゴールデン・ドラゴン(金龍酒店)、ホテル・リオ(利澳酒店)など、新規ホテルの開業も相次いでいる。迎え撃つホリディイン(暇日酒店)、フォーチュナー(財神酒店)などの既存ホテルも、それぞれ特色ある改装をすませ、客を集めている。
マカオ・カジノの象徴として君臨してきたリスボアホテル(葡京酒店)も、隣の工人運動場跡地にニュー・リスボアを建設中。それでも休まず営業を続けているリスボア・カジノの貴賓室の賭け金の相場は、伝統的な「大小」ゲームで最低200元から。かつては10元から遊べたものだが、いまや気軽に張り込むわけにはいかなくなった。そのそもの原因は、中国大陸からやってくるお金持ち観光客たち。彼らがバカラやルーレットに大きく張り込むため、賭け金の下限がつり上がった。マカオのカジノのテーブル総数は米国ラスベガスの3分の1程度にすぎないが、賭け金額ではラスベガスを抜き、世界一に躍り出る。
かつては閑古鳥が鳴いていた内港沿いの二つ星クラスのホテルも、中国からの団体観光客で潤っている。野鶏(大陸からの出稼ぎ売春婦)の巣窟だった東亜ホテルは、レトロな雰囲気をウリにした観光ホテルに変貌した。同様の傾向は、近くの半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)や萬事發酒店でも同様。これらのホテルを根城にしていた野鶏たちは、当局の「掃黄」(風俗取り締まり)の効果もあり、一部の賓館に封じ込められている。
いっぽう、新馬路の入り口に立地し、日中戦争開始年の1937年11月にオープンした老舗、ホテル・グランド(国際酒店)は、老朽化が激しく、返還を前に店をたたんでいた。ところが空前のマカオ観光ブームで、ホテルの室数が足りない。このため、この歴史的建造物にも買い手がつき、新しいオーナーのもとでホテル・ニュー・グランド(新國際酒店)として再オープンする運びだという。
龍眼はかつて、戦時資料の調査で『華僑報』資料室に日参していたおり、長い昼休み(12時30分~15時)を、冷房の効いた国際ホテル1階のレストランで過ごしていた。同じく炎天を避けて、涼みに集まってくる野鶏たち。キリリと冷やしたポルトガル・ワインを片手に、彼女たちを横目で見やりながら、ランチを楽しんでいた日々が懐かしい。
南欧と中国が入り混じった旧市街の佇まい。開業当時の雰囲気を今に残す国際酒店。内港からは、晴れた日には珠海市郊外の湾仔村がくっきりと見えた。この泥海を泳いで渡ってこようとして、今までに何人が落命したことか……。
時々刻々と目まぐるしく変わる世界。だが、マカオだけは大航海時代の雰囲気を色濃く残す。まるで時間が止まったような錯覚に陥るマカオの佇まいは、忙しい日々を過ごす現代人に、この上ない癒しを与えてくれる。
ところが現在のマカオは、中国の金持ちや西洋人が注目する世界的なカジノの殿堂。世界遺産にも指定された歴史の街並み。街全体が博物館のなかにあるような雰囲気こそそのままだが、観光客の数は飛躍的に増えた。賑やかになったぶん、往時のさびれた雰囲気はなかなか味わえない。
地元の大新銀行を覗いたところ、龍眼の目の錯覚でなければ、「定期預金、年利20パーセント」などという、魅力的な掲示が飛び込んできた。史上空前の好況は、ホテル、レストランなどの観光業を潤し、カラオケ、カジノ、夜総会(ナイトクラブ)、サウナなど、娯楽産業全体におよんでいる。
さらにそれが建設業にも波及し、いまのマカオは空前の建設ラッシュ。このため、中国から大量の出稼ぎ労働者(外労)が建設現場に大量に入り、マカオ人労働者を締め出してしまった。空前の好況は、マカオのすべての人々に恩恵をもたらさなかったのだ。
労働者が暴徒化したのには、相応の理由があった。

◆過去にもあった流血の歴史-1966年の一二・三事件-

16世紀半ば、大航海時代のポルトガル人入植にはじまるマカオは、広東省珠海市と陸続きのマカオ半島と、タイパ島、コロアン島という、「だんご三兄弟」のように、大橋で串刺しになった三つの部分からなる。埋め立てで面積は日々増加しているが、1999年の中国返還の時点で、マカオの総面積はほぼ東京都品川区と同じくらい。市中の隅々までバス網が張りめぐらされ、交通に不便はない。通貨はポルトガル植民地以来のパカタだが、香港ドル、人民元もかなり通じる。住民の多くは中国系で、広東語を話し、ポルトガル語はほとんど話せない。使われている漢字は台湾、香港と同じ「繁体字」(日本の旧漢字に相当)。

第二次世界大戦以後のマカオ現代史を紐解くと、過去にはさらに大規模な流血事件があった。現代マカオ史の折り返し点ともなった、1966年の一二・三事件だ。
日本ではあまり知られていない事件なので、その顛末を記録しておこう。

ポルトガル植民地だったマカオでは、中国系住民に対する差別待遇が著しかった。また、マカオの中国系住民の中にも、大陸系の左派グループとと国民党系のグループがあり、1960年代半ばまでは10月1日の国慶節(中華人民共和国建国記念日)と、10月10日の双十節(中華民国建国記念日)が共存するなど、反目しあっていた。こうしたなか、中国文化大革命の影響のもと、中華総商会など左派グループの活動が活発になっていった。
1966年4月、タイパ島の村民たちは施徳憲正街の4・6・8番地(現在は赤い壁のポルトガル料理店になっている)を改築し、小学校を拡充して教室不足を充当しようとした。ところがこの工事は当局の許可を得ていない「無届け工事」だった。
村民たちは、タイパ島を統括する海島市行政局に工事を申請し、過去24回にわたって行政局長と交渉したのだが、埒があかなかったため、当時の慣例に従い、さきに着工したのち、あとで承認を得るという方法を採ったのだ。
ところが、当局は強硬な規制に出た。11月15日、学校門前で村人たちの工事を阻止しようとした警官隊との衝突が発生。双方で24人の負傷者が発生し、取材していた『澳門日報』記者が連行された。マカオ財界の大物何賢(ホー・ケン)や中華総商会が動き、記者は翌日に釈放されたものの、当局の態度は強硬だった(タイパ事件)。
18日、タイパ島の村人たちは5項目の要求書を出し、①村人たちに暴力を振るった犯人の処罰、②学校建設を妨害しないこと、③負傷者に対する損害賠償、④(『澳門日報』記者への)「禁固20日」という判決の撤回、⑤事件再発の防止の5項目を当局に要求した。
25日にマカオに赴任したばかりのカバロ総督は、警察の対応に問題があったことを認め、中立の調査委員会を設けると約束した。だが中華総商会は排除され、委員就任の要請は来なかった。これでは「中立」とはいえない。左派グループは態度を硬化させ、南湾のマカオ総督府前には、日増しに抗議の人々が増えていった。
12月3日正午、ついに衝突が発生。警察は警棒や放水車を使って民衆を解散させようとしたが、人々に事件発生が伝わるや、抗議の人だかりはますます膨らんだ。午後3時、セナド広場にあったメイシキダ像(音訳)が壊され、マカオ市役所と仁慈堂の一階にあった公証署も襲撃された。そして午後4時半には、龍崗街の警察署前に抗議に押し寄せた群衆に警官隊が催涙弾を発射。それでも解散しなかったため、ついに発砲。2人が死亡した。セナド広場前にある市政庁前にも放水車が配置されたが、怒りの声をあげるマカオ民衆はセナド広場を埋めつくし、なかなか解散しなかった。
マカオ政庁はついに戒厳令を公布。その後の数日間に当局によって殺害された住民は8人。負傷者も212人。住民側は11人が殺されたと伝える。
12月10日、中国の広東省人民委員会はマカオ政庁に、①住民の要求を無条件に受け入れること、②中国に賠償・謝罪すること、③関係者の厳重な処罰、④今後マカオで国民党の活動を一切認めないこと、の4項目からなる抗議書を提出。さらに、マカオ同胞に対するマカオ総督の署名入りの謝罪文をラジオと新聞で全文公表することと、事件の再発抑止を求めた。
中国がマカオ境界の人民解放軍を集結させてマカオを武力回収する姿勢を示したため、マカオ政庁もポルトガル系住民を臨時召集。両国間に緊張が走った。
だが、結局、軍事力に劣るポルトガル側が屈した。
12日、マカオ政庁は公開謝罪の一件を留保しつつも、中国側の要求をすべて受け入れると通告。16日にガバロ総督は陸軍指令官、市政署長、警察署長を罷免。タイパ事件の発端となった海島区の行政署長代理と警察副署長を本国に召還した。17日にはマカオの左派グループが行った犠牲者の合同葬にあたり、葬列が通るマカオと中国の間の拱北関門のポルトガル国旗を半旗にして弔意を示した。この時には、市政庁にも半旗が掲げられている。
22日にはマカオ政庁と広東省外事所の折衝がはじまり、クリスマスイブの日に総督の謝罪文原案が示された。翌年1月20日、マカオの左派グループは大会を開き、合同の処罰検討委員会を発足。あわせて、植民地マカオの悪習だった公務員や軍人に対するリベートなどの便宜供与の撤廃が決まった。
かくして1967年1月27日。マカオ政庁は、「事件で亡くなられた遺族、負傷者、逮捕者など全ての犠牲者、被害者、全マカオの中国系住民に深く謝罪し、中国系住民代表所が示した要求をすべて受け入れる」という謝罪文を発表。マカオ政庁は、犠牲者の葬祭費や慰謝料として、つごう205万8424マカオパカタ(約2000万円)を拠出した。
この日の午後、ガバロ総督が中華総商会の礼堂に赴き、『マカオ政府の華人各界代表所から提出された抗議書への回答』に署名したことで、事件は落着をみた。
以後、マカオでは国民政府の活動が封じられ、国民党系の人々は香港などに逃れた。そして、その後のポルトガルによるマカオ統治は、中華総商会との協調なくしては成立しなくなった。ポルトガルと中国の蜜月の始まりである。

一二・三事件には、中国文化大革命が大きく影響していた。そもそもマカオは街坊(町内会)を取り仕切る保守的な中華総商会の影響力が強く、事件を機に伝統左派(トラディショナル・レフト)の支配力が決定的に強まった。そして、事件は香港にも波及する。
香港では1967年、新蒲崗の香港造花工場の労働争議を機に、香港六七暴動がおこった。もっとも、イギリスの香港政庁はマカオ政庁とは異なり、武力でこれを鎮圧。双方で死者51人、負傷者833人(英国香港政庁統計)、逮捕者4900人余り(香港左派統計)という戦後最大の惨事となった。ここでも中国政府はイギリスの住民弾圧に激しく抗議し、武力による香港奪還をちらつかせたものの、人民解放軍の香港進駐はなかった。
その後、イギリスの香港政庁は香港社会で圧倒的多数を占める中国系住民の民生を見直し、公団住宅や水道などのインフラや、ミニバス、地下鉄などの公共交通網の整備に力を入れると共に、中国系住民の中等教育、高等教育の拡充を急いだ。中国系住民が98パーセントと圧倒的多数を占める香港社会で、彼らが公共部門を担うテクノクラートに台頭してくるのはこの時期以降のことだ(拙稿「香港の歴史~日本とも深いかかわり~」『NHKテレビ・アジア語楽紀行~旅する広東語~』所収、日本放送出版協会2006、所収)。
一二・三事件に勝利したマカオ左派とは対照的に、香港六七暴動は左派の権威を失墜させた。代わって香港には中間層が育ち、1989年の六・四天安門事件を機に、民主派が台頭してくる。
このように、隣り合わせて植民地を経験した二つの都市国家だが、それぞれの社会が体験した「文化大革命」の経験は、マカオでは伝統左派が主導する「ムラ社会」を固め、香港は都市中間層の「市民社会」へと発展させるという、対照的な道を歩ませた。
1999年12月20日、旧宗主国ポルトガルから中国に施政権を返還されたマカオ。その現代史において、1966年の一二・三事件は、その政治社会秩序を根本的に転換させた画期にあたる。返還で施政権こそ中国に移ったが、社会構成の基本は変わらず、その後も受け継がれている。
蛇足になるが、マカオ返還前年の1998年に、タイパ島にオープンしたニューセンチュリーホテル(新世紀酒店)のカジノ利権をめぐり、香港や台湾に影響力を持つ「14K」と、大陸系の「水房」という二つの「黒社会」(暴力団)グループが相乱れて発砲、爆破、暗殺の抗争を繰り返した時期があった。いっぽう香港では、返還前年の1996年に魚釣島に日本の右翼団体が建てた灯台をめぐり、釣魚台(尖閣諸島)の中国領有を主張する第二次保釣運動が高揚した。これらは共に返還前年におこった事件であり、今になって見れば、マカオと香港という、それぞれに異なった植民地社会の「持ち味」を体現した、返還前の、一種の「通過儀礼」だったようにも思えるのだ。

◆マカオ問題というよりも中国問題

 さて、現在はマカオに二人だけしかいない民主派立法會議員のひとり、民主新マカオの呉國昌(ン・コックチュン)議員は、今年の「血のメーデー事件」当時、暴徒化せずに座り込みをしたほうのデモのなかにいた。
その呉國昌議員は、「今までたまりにたまっていた(マカオ社会の)矛盾が一挙に噴き出したもの」(『華僑報』2006年5月2日)と指摘する。返還後の好景気のなかで、マカオ社会に内在していた、隠されていた問題が一挙に噴き出したというのだ。
 もっとも、マカオは史上空前の好況下にある。マカオ政府は潤沢になった税収を武器に、まだまだ対策のたてようはあるかもしれない。たとえば「世界遺産」マカオの美観を保全するために、街坊の清掃や文化財の維持管理に、彼ら失業者を登用したらどうだろうか?職業訓練のやり方しだいでは、歴史的文化財のリペア(修復作業)や、500年におよんだポルトガル入植の歴史を掘り起こす、埋蔵文化財の発掘技術者など、マカオ固有の、新らしい「職能」も創出できるかもしれない。
マカオ政府当局が、マカオの建設に外労(民工)を不可欠な労働力と位置づけるのであれば、こぼれ落ちたマカオ人労働者の面倒をみるのは政府の責任だ。今のマカオ政府ならば、そのくらいの財力は潤沢にあるであろう。
 日本を代表するマカオ研究者で、ながく広東研究会を主宰してきた塩出浩和城西国際大学講師は、今回の事態を、「マカオ問題というより、むしろ中国問題」と見ている。 
 中国では農村部と都市部の収入格差が広がり、農村から出稼ぎに来た農民たちが都市に住み着き、民工(出稼ぎ労働者)や、打工妹(出稼ぎ女工)として、都市社会の最低辺を支える。彼ら農村戸籍の人々は、都市部では「二等国民」として扱われ、市民権がない。子どもを学校にもやれず、病気になっても医師に診てもらえない。こうした底辺の労働力は、マカオとのボーダーをなす広東省珠海市にも潤沢にあり、一部は「外労」として、そして女性たちの一部は、風俗業(娯楽産業)に「性工作者」として迎え入れられている。つまり、中国内部の「格差社会」が解決しないかぎり、マカオの外労問題も根本的には解決しないのだ。

 マカオの失業者問題もさることながら、巨大な中国の舵取りは、さらに大変そうだ。

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登録日:2006年 06月 30日 06:17:49

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プロフィール
龍眼
(男)
本名和仁廉夫。 ジャーナリスト。高校、予備校の教壇生活を経て現職。1990年代から香港問題に関わり、マカオ、台湾、中国、華僑華人世界の持つ多様な観点を紹介してきた。著書に、『旅行ガイドにないアジアを歩く・香港』(梨の木舎)、『香港返還狂騒曲』、『歴史教科書とアジア』、『東アジア・交錯するナショナリズム』(社会評論社)など。自称の「龍眼」とは、中国南部で広く食されるライチに似た果物。淡い茶褐色で、食味はジューシィ。そもそも「龍」とは、中華世界の幻の神獣。「龍眼」はその「龍の眼」に由来している。
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