2006年 07月
「リアル」で「バーチャル」
【ニューデリー/インド 23日 AFP】ニューデリー(New Delhi)で23日、ヒンズー教のシバ神を祭る行事カンワリアス(Kanwariyas)が開催された。信者たちは、オレンジ色の装束に身を包み、自分の村の寺院にあるシバ神像に注ぐ聖水を、二ールカンス(Neelkanth)、ゴームク(Gomukh)、ハリドゥワール(Haridwar)から運ぶ。徒歩で行われるこの聖水運びを達成すれば、願いが叶い、シバ神のご加護が得られるという。写真はニューデリーで23日、ガンジス(Ganges)川で汲んだ水を運ぶ信者たち。(c)AFP/Manpreet ROMANA
この梅雨の時期、関東では「何だか雨の日が多いな」位の気持ちで毎日を生活している訳なのですが、各地ではそれこそ大変どころの騒ぎではない事態に陥っている「様」です。こんな書き方をするととても不謹慎に聞こえてしまうかもしれません。いや、現地で生活をしている方々にしてみれば、不謹慎極まりない発言以外のなにものでもない筈です。先に誤っておきます。
ゴメンナサイ
ですが、テレビでの現地の様子を捉えた映像を観たところで、大抵の場合は自分が頭の中で理解している自然災害の「概念」と置き換えられてしまい、あまり実感が沸いてこないのが現実。おそらく、このような感覚を持つ人間は以外と多いのではないかと思う。破壊力抜群な台風やハリケーンなども体験済みではあるが、テレビで映像を観ることと体験することはやはり別。あの台風のさなかに雨合羽を身に着け、手に持つナイロン傘がひっくり返っているアナウンサーの様子を映していたとしても、大抵の場合ひしひしと来るものが無い。映像である限り、体に直接ひしひしと来ないのは当たり前といえば当たり前だし、逆に本当に来てしまったらそれはそれで困ってしまう。「リアル・バーチャル」とでも言えばいいのか。「リアル」で「バーチャル」、これ以上無いほどの矛盾をはらんでいるのは承知しているが、実は予測不能な展開を生みそうで興味深い。アニメ「ドラゴンボール」などを観てしまうともう大変である。ゴクウが黄色くなって発する「気」の凄さを感じることも出来るが、油断していると「カメハメ波」を全身で浴びることとなってしまう。おちおちとテレビなど観ている場合ではなくなるし、とても危険な香りがする。
今回選んだ写真はもちろん映像ではない。動画ではないと書いたほうが的確か。動画の特徴として、その情報量の多さが挙げられると思う。音や動きなどがこの情報量を構成していて、あるポイントを超えた瞬間に「臨場感」と呼ばれるモノに変身する。そしていつからか、この臨場感なるものを醸し出すために「ハード」の部分での工夫を凝らす風潮になってきてはいるが、果たしてこの考え方は正しいのであろうか?
確かにスピーカーや画面などが改良され、見ている側にとってみると「迫力のあるモノ」を体験できるようにはなっているが、これではあくまで「体験」の域を超えることは無い。中身、「コンテンツ」の部分でこの臨場感を感じることが出来るのであれば体の内側からそれは感じられるはずだし、「実感」出来るはず。
話を戻そう。
この写真、正直とても暑苦しい。
実際のところは知らないが、そう見えて仕方が無い。絶えるに忍びないほどの湿度を感じてしまうし、この現場に居合わせている人々の汗のニオイがコンピューターの画面から貞子のように出てくる感がある。まるでインドの活気と熱気をそのまま切り取ったかのよう。写真の男性の髪の質感や頭皮のニオイ、そして、所狭しとひしめく人々の腕と腕が雑多の中で触れ、汗でべたべたとするあの感覚が本当によく伝わってくる。サンダルを履く足も何度と無く踏まれるのであろう。見ているだけでこっちまで汗だくになってくる感覚に陥る。この写真には、先日のスペースシャトルのような所謂「メインオブジェクト」的な被写体が無く、写真だけ見ても何について撮られているのかがはっきりとはしない。よって、表向きの情報量は少ない筈なのであるが、感覚的にひしひしと伝わるものが確かに存在している。それはすでに書いたとおり湿度でありニオイであるわけなのだが、これが本当の意味での臨場感なのではないでしょうか?
このニュースサイトは写真の数が膨大で、見る側からすると頭の中だけで世界の実情を知り、理解するに留まらない利点があるように思える。そして、これだけの点数があるせいか、とても良い写真も多いし、中には感情に訴えてくる写真も多い。しかし、この写真のように直接「感覚」に作用するような写真で、表面上の面白さとは裏腹に事実を伝える説得力のようなものを含む写真も存在する事を今回再認識した。写真から受けた感覚が果たして実際の現場の雰囲気と一致しているのかはわからないが、そう信じさせる何かがこの写真にはある。
最近、めっきり聞かなくなった「バーチャルリアリティー」の定義を改めて考えさせられる一枚でした。
Art of 「リアル」で「バーチャル」
モノを感じる箇所は人間の内と外の両方にある。
そして「内」の感覚器官は感情以外でも作動する。
今回は、暑苦しさと汗臭さではあったが…
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登録日:2006年 07月 25日 15:43:34
何もしない
この2日間の休みは、いつも通り山間のスタジオに来た。
が、スタジオ入りとは名ばかりで、ほぼ、何もしていない。やった事と言えば、だらだらと裏を流れる川のせせらぎを聞き、季節外れの「ホーホケキョ」と、朝夕の「カナカナカナ」の大合唱をバックにうたた寝をした位である。もちろん、アウトドア派(?)として外す事の出来ない山歩きと銘打った散歩をし、ちょうど曲がり具合の良い枝を見つけて「ガンダルフの杖」略して「ガンダルフィー」と命名した。しかし、この「ガンダルフィー」は凄い。持っているだけで楽しい気分にさせてくれるし、自分に特別な力を授けてくれる気さえする。
こう書き出してみると、先ほどの、「何もしていない」と書いたことを撤回せずにはいられない。盛りだくさんである。所謂、アクティビティーとしての「遊び」をした訳でもないし、ましてや「目的意識」を持って仕事や勉強をしたわけでもない。「何かをしなくてはならない」的な強迫観念に駆られて休日を過ごすことに2人とも長けてはいないので、この休みの過ごし方はある意味、正解である。この「強迫観念」とはちょっとした曲者で、本来、個々の持ち合わせている「自分」というものから、知らず知らずの間に遠ざける力を持っている。
「何もしない」事は、果たして本当に悪いことなのであろうか?
「何もしない」事からは、本当に何も得ることが出来ないのであろうか?
そして、「何もしない」事は、果たして「堕落」への道なのであろうか?
この2日間、「堕落」の代名詞ともいえる「寝る」を堪能した。
鳥や虫の声、そして水の音が心地よい睡魔を導き出し、その感覚に従うことで十分すぎるほどの睡眠を得ることが出来た。普段、我々が感知している「リラックス」の底辺が実は底辺でもなんでもなく、階段の途中にある踊り場のような場所であり、本当にリラックスした状態での底は計り知れず底なしであるかのような気さえしてくる。それと同じく、あの「山歩き」で「ガンダルフィー」と出会ったときの高揚感、そして、山で「ガンダルフィー」が導いてくれる数々の「未知との遭遇」から生まれる驚き、発見における喜びの限度も計り知れず、「天井知らず」である。そう考えると「心底」や「天にも昇る」などはまだまだ素人の域を超えては居ない。修行が足りないのである。
「何もしない」事で、これだけの様々な感覚を体験出来たのであるから「何もしない」事からは山ほど得るものがあり、それは軽蔑されるようなものでは決してない。
では、一般的に言う「何かをした」、所謂「有意義に過ごした」休日は、本当に全ての人にとって何かを得られる体験なのだろうか?
世間一般で言う「有意義な休日」を過ごしたとしよう。渋滞に巻き込まれながら行楽地へと車を走らせ、ものすごい数の人の列に並び、所謂「夏はコレ!」的な一日を過ごす。クタクタになって帰ってきて、本心から「あー、楽しかったね」と言えるだろうか?
我々には無理。余分なストレスが溜まるだけである。
もちろん一概に言い切れないことは十分に理解している。
人にはそれぞれのペース、そしてリズムがあるから。前回書いた「ジンガ」もそう。ただ、大切なことは、その自分の中で刻まれ続けるリズムに耳をしっかりと傾け、聞く耳を持つことだと思う。するとどうであろう、「有意義」の根底にある「脅迫観念」なるものは跡形も無く消え去るのでは?
我々が愛して止まないヘルマン・ヘッセは、かつてのアジアにおける文学についてこんな一文を残している。
「聞き手は、ひとりの若者の恋のよろこびや、主君の勘気にふれた大臣の自殺の話に聞き入るときと同じように熱心に、ひとりの老いた隠者のさまざな特徴の描写に耳を傾けて楽しむ。私たちは読みながら、たえず憧れと羨望の念を抱く。『この人たちには暇があるのだ!』そう、たっぷり時間があるのだ!」(1973年 遺稿集「無為の技」より)
Art of 何もしない。
何もしないことの意味は「ガンダルフィー」が教えてくれる。
「贅沢」なひとときは、いつもそこにある。
しかし、横に置いてあるイカの燻製からは堕落のニオイがする。
これといった根拠はないが、ただ単にそう思えて仕方が無い。
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登録日:2006年 07月 18日 12:48:54
ジンガ
ワールドカップも残すところ後2試合のみとなってしまったが、正直このような展開を見せるとは誰も思ってはいなかったのでは。よく言えば、経験値がモノをいった結果だし、悪く言えば、ある意味において尻つぼみとでも言えば良いのか。僕自身、大会前からアルゼンチンの活躍を期待していたし、グループリーグ、決勝トーナメントともに期待通りの試合をしてくれた。少なくとも、最後の対ドイツ戦での監督の采配を除いては。後半20分にローマンを下げる行為、あれはいったい何だったのであろうか?残り時間を考慮しても、守りきって準決勝進出をそのまま決めるのは難しい。特にアルゼンチンのプレースタイルを考えるとなおさらである。
今大会、屈指の層の厚さを誇るアルゼンチンではあったが、「個」の能力にのみ頼ることは決してなく、あくまでも「チームプレイ」に徹していたように見えた。それは観ていてとても気持ちの良いサッカー、そして「正しい」サッカーとして見受けられた。しかし、そのチームサッカーの要となるローマンことリケルメを下げてしまっては自分たちのスタイルを自ら壊すようなものである。どんなスポーツでもそうだが、「相手をリズムに乗せない事」とは、試合を有利に進めるための第一条件だし、試合のペースを掴むことにより、普段の練習どおりに慣れ親しんだ「形と流れ」を思う存分発揮するために必要不可欠なエレメントなはずである。そんなせっかく手に入れたリズムとペースを自ら相手チームに献上してしまうとは、観ている側からすれば理解不能な行動以外の何物でもない。
そんな中、自分の中でほぼマークされていなかったチームがこの「リズム」を大切に終始試合を進めていた。メキシコである。マルケスを中心にボールが目まぐるしく動き、いや、ボールだけではない。各選手はもちろん、その選手たちの役割までもが目まぐるしく変わり続けるサッカーをしていた。ゲーム中、数秒前まではディフェンスに徹していた選手が次の瞬間には中盤、サイド、そしていつの間にかまたディフェンス、もしくはフォーワードの位置についているではないか。こう書いてしまうと、まるで小学生が体育の時間にやるボールの周りに群がるあれを想像させてしまうかもしれないが、メキシコのサッカーは決してそうではない。どんどんポジションが入れ変わり、その空いてしまったスペースに変わりの選手がすかさずカバーに入り、これでもかって程に流動的なサッカーを繰り広げる。本当に「目まぐるしく」という言葉がしっくりと来る。そんな自分たちのスタイルを最後までやり抜き通しても結局は負けてしまったが、自分たちのリズムを崩さず、そのリズムを信じ続けるその姿勢はとても気持ちの良いものであったし、スポーツという枠を超えた部分で何か大切なものを教えられた気もする。
「信じ続ける」ことの難しさ
アルゼンチンの層の厚さを持ってしても途中敗退してしまったのには、実はこの部分が大きく関係しているように思えるのであるが、さて本当のところはどうなのであろう。超一流の選手層とその各エレメントを余すことなく使いきる名シェフことペケルマン監督。しかし、彼は最後の最後で本質の部分での「味」そのものよりもレストランの持つ「星の数」にこだわったようにも見える。「味」とは、有名レストランが有名であらんとする理由であり、レストランの顔そのものである。いくら有名なシェフが居て、どんなにすばらしい食材を仕入れることが出来ようとも、自分たちを信じてすべてを使い切りらなくては意味の無い話である。自分たちを信じて進んできたからこそ、有名レストランとして確立できたのであるし、アルゼンチンが強豪チームとして名を馳せることが出来たのである。信じることを止めること、すなわちそれは、勝負を捨てることを意味することなのかもしれない。僕らが生きていく上で信じることを投げ出すことはこれと同じで、生きることを止める事であるような気がする。
先日、「ジンガ」なる映画を観た。ブラジルでのサッカーについての映画である。今大会のブラジルの成績、そしてチームの姿勢を考えるととても皮肉に思えてくる映画となってしまったが、この映画の中でとても印象に残る一言があった。
「人にはそれぞれジンガがある。一人一人が違うジンガを持っている」
結局、最後までこの「ジンガ」なるものに対する言葉での説明は無かったものの、(少し乱暴な書き方をする事になるが)大まかに言って「人生観」や「生き方」のようなものだと僕は感じた。ここでのこの映画に関する説明や感想はあえて避けさせて貰うとして、僕はこの「ジンガ」を今大会、メキシコチームからもっとも良く感じ取ることが出来たと思う。途中で敗退してしまったものの、やはり一番格好よく、そして少し大げさだが、尊敬できるサッカーチームであった。信じることを最後まで諦めない格好よさがあった。
Art of 「ジンガ」
信じることを止めたときに全てが水の泡となる。
信じ続けること、それが「ジンガ」なのであろうか?
人にはそれぞれ「ジンガ」が備わっているらしい。
では、僕等のそれは一体何なのであろうか?
もしかして、
…いつものあれか?
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登録日:2006年 07月 09日 01:19:48
「感覚」VS「真実」
【Mefalsim/イスラエル 30日 AFP】イスラエルは30日、パレスチナ武装勢力に拘束された兵士の解放について、話し合いで解決するよう国際社会からの訴えを受けて、ガザ地区(Gaza Strip)北部への進攻を延期した。写真は、ガザ地区での停戦を訴えるプラカードを持ち、警備にあたる2人の憲兵の前に立ちはだかり、兵士の解放を話し合で解決するよう抗議するイスラエル左派の活動家。(c)AFP/GALI TIBBON
まだ学生だった頃のある夏休み、ちょっと仲違いしていた友だちから手紙が届いた。読み終えて、「なんだこいつ、こんな嫌味をわざわざ手紙で言ってくるなんて…」と思い、その上に「こんな挑発にのって反論の返事を書く必要も無い、無視だ、無視。」という判断を下して、結局返事は書かず終いだった。
秋になって学校に戻ると、そいつはもう卒業していて(9月が始業のため)その後も、もう二度と会うことはなかった。
数年後、いつもの通りに実家の部屋の掃除をしていると、忘れていたその手紙が偶然出てきた。おそるおそる読み返してみると…。絶句した。ずーっと私が思っていたような嫌味な手紙ではなく、とても謙虚な言葉で謝罪とまた仲直りしたい、というようなことが書いてあった。愕然とした。ずーっと私の信じていた「あいつはいやな奴だ。最後にあんな嫌味な手紙をよこしやがって。あれが関係の終わりへの決定打となった。」という事実は真っ赤なウソで、実際その元友だちにとっては「友情を終わらせたくないから、一生懸命勇気を出して書いた手紙をあいつは無視しやがった。関係をおわらせたのはあいつ(=私)だ。」が、彼女にとっての事実となり、今でもそのままなんだと思う。
しかし、私の信じていた事が実は真っ赤なウソでもなんでも、当時、そしてその後数年間は、そう信じていたのだからそうとしか思えず、それが私にとっての真実以外の何ものでもなかった。これも、また真実である。
結局「真実」なんて、そんなものではないのだろうか。ひとつの出来事をとっても、見る人、立場によっていくつもの「事実」があって、それはどれも危うく、不確かなものではなかろうか。唯一の「確かな」そして「真実」なんてモノは存在するのだろうか?(複数の異なる真実があるからこそ、いざこざ、争い、果てには戦争が起こるのであろうし…)
例えば、「自分」の存在ひとつをとってみても、とても危ういものではなかろうか。人は生まれてからずーっと「同じ」自分、一貫性のある自分と思い込みがちだ。でも、人間の細胞は毎日毎日どんどん新しいのに作りかえられているし、そして計算上はある一定の期間を経るとそっくり「新しい自分」にリニューアルされることになっているらしい。つまり生まれ変わりであるし、ある意味変身でもある。そしてこの生まれ変わりが何度も繰り返し行われているとなると、「過去の私=今の私」なんてとても言えたものではない。
さて、では、何も信じることのできる「確かな」ことなんてないし、ましてや「自分」の存在さえあやういものなんて言われた日には、「もうこの世なんて虚構だ!どうにでもなれ!」と自暴自棄になりたくもなるし、「もうこのまま飲んだくれて酔いつぶれ、どこかでへたれ死んでもかまわないだろ!」とも思いたくなる。
でも、世の中そう簡単にキレイにはいかないのである。現実はもっと厳しい。飲んだくれてどこか知らないところで酔いつぶれても、必ず朝はやってくる。そして、頭が割れそうな程の痛みを伴う二日酔いも一緒に…。前の晩の私の潔い「真実」であった、「もうどうにでもなれ!」は、朝になれば「まずい、このままでは死んでしまう!病院だ、病院!それか、頭痛薬と水!誰か助けて〜!」の極限状態で発揮されるサバイバル本能に誘導された「なんとかして生きなければいけない現実」へと、勝手に変換されて行く。
さてさて、話が見えなくなってきましたが、つまり私の言いたい事はこうである。長期的に見れば、「真実」や「これが私のリアリティー」なんてモノは無いのかもしれない。それは、私たちが自分の「感覚」という危うさに頼って毎日いろいろな決断を下していることから来るものでしょう。でも、現実的には、その都度、そして毎回、自分、自分のボディおよび神経が発している信号、「痛い」「眠い」「腹減った」「気持ちいい」「不快だ」「キモい」などの自分の「感覚」が示すGOサインを信じるしかない構造に人間は出来ているのです。ただ、その一時期の感覚=temporal reality に長い間固執して、再確認を怠ると大変危険な状態に陥りやすい一面も…。
ん〜…。生きることが複雑なのか、それとも私がタダのバカなだけなのか…。
Art of 「感覚」VS「真実」
まだまだ未熟な私にはわからないし、一生かかっても解ける問題ではないのかもしれない。
ただただ、ジェイミーには悪いことをした、というのが今の私の真実です。
どう連絡をつけて良いのか見当もつかないけれど。
ごめんなさい。
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登録日:2006年 07月 01日 15:37:24
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