2006年 08月
冥王星は冥王星
【プラハ/チェコ 24日 AFP】過去70年の間、太陽系の最も外側にある第9番目の惑星とされてきた冥王星が惑星としての地位を失った。
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(c)AFP/NASA
太陽系の惑星は8個。
今までの「水星」「金星」「地球」「火星」「土星」「天王星」「海王星」「冥王星」の9個から最後の冥王星を除いて8個になったそうだ。よくよく読んでみると、この星はもともと1930年代にアメリカの天文学者が発見し、これまでも幾度となくその大きさやその軌道から冥王星を太陽系の惑星とするか否かで議論されてきたらしい。しかし、これまでもその星を発見した人、そしてその母国であるアメリカの顔を立てるために結論は先延ばしされ、「惑星格下げ論」に反対の意見が多かったようだ。何だかおかしな話である。スケールの大きいはずの宇宙の話であるにもかかわらず、何だかスケールの小さい議論に見えてくる。太陽系などは、この広い宇宙から見れば本当にちっぽけな存在であるはず。おそらく全体からすると比較する対象にならないほどに。
スケールの話で思い出したが、先日、同じく宇宙絡みの話で「『暗黒物質』の存在を証明する確たる証拠を掴んだ(http://www.afpbb.com/article/818050)」との話を読んだのだが、自分の持ち合わせている、このほぼ用を成さない脳みそでは何が何だかさっぱり理由がわからなかった。なんだか、宇宙に存在する「銀河群」同士が衝突したときに「モノスゴイ」事が起こるらしい。詳しくは上記URLを参照してもらいたい。その話の中で触れられていた「銀河群」の文字を見た瞬間にそのスケールの大きさにまず圧倒された。只でさえスケールの大きい「銀河」を束ね「群」と見立てたのであろう。自分でもそれくらいは解る。少なくとも概念では。この「銀河群」とまた別の「銀河群」が衝突し、なにやらとてもエキサイティングな現象が観測できたらしい。はっきり言って、良く解らない。何度読み直しても同じである。タンスの角に頭をぶつけ、忘れていた少し前の出来事を思い出す位のレベルの話なら、なんとなく理解も出来なくは無い。渋谷のスクランブル交差点で大勢の人間が一斉にすれ違い、その瞬間に運命的な出会いが生じるようなものなのか。多分、違うのであろう。少なくともその出会いを果たした当事者にとって見れば、これ以上エキサイティングな話は無いのであろうが。
天文学者に鼻で笑われそうだ。
しかし、この冥王星に関する議論は何十年も前から行われ、今回の結論に至ったらしいが、これが一体どのような作用を自分にもたらすのか。おそらく何も無いであろう。教科書を含む文献の改訂に携わる人間にとってはそうは言えないところであろうが、自分にはこれっぽっちといって関係の無い話である。ただ、太陽系の星を数える時に「スイ・キン・チ・カ・モク・ドッ・テン・カイ・メイ」の最後の部分で「メイ」が言えずに尻切れトンボ感が生じることにはなるが。冥王星にしてみればその存在はこれからも何も変わらず存在しつづけるであろうし、地球のちっぽけな人間がその「惑星」としての権利を剥奪したとしても痛くも痒くも無いであろう。何故に人間は事物に対して線引きをしたがるのであろうか。この地球上で日々行われている線引きによってもたらされる様々な障害だけでは飽き足らず、宇宙空間でも同じ事を繰り返し、その傲慢さをさらけ出しているだけではないのか。どこに境界線を引こうがそれは個人の勝手だが、その境界線で区切られる両側のモノの存在は同じように存在し続ける。この世にその存在を開始した瞬間からその存在はその存在以外のなにものでもない。自分は自分だし、どこかに隔離されたとしても自分の存在が別のものと取って変えられてしまうことは決してない。冥王星にとってもまったく同じはず。
Art of 冥王星は冥王星
太陽系の星は8個
昨日までは9個
お山の大将が決めたから
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登録日:2006年 08月 25日 14:15:03
価値観
ギネスに挑戦、史上最多3000人による宴会 - オーストリア
【Schaerding/オーストリア 15日 AFP】Schaerdingで15日、ギネスブック(Guinness)記録への挑戦が行われ、全長1036メートルにおよぶ食卓に3000人が座り、一斉に食事を取った。写真は同日、食事を待つ参加者たち。(c)AFP
「ギネスに載るほどの大記録」
この言葉を耳にする機会が意外と頻繁にあるのは気のせいなのか。世界に誇る記録の樹立は、さほど難しいことではないのであろうか?
どんなに些細な事物も、その存在がこの世に生じた限り何かしらの記録を保持するはずである。それを「ギネス」の記録として残すかどうかだけの話であるように思える。例えば、8月16日生まれの人間が居るとする。仮にAさんとしよう。さて、Aさんは午前0時ちょうど、もしくはそのコンマ1秒後に生まれるとすると、Aさんはこの日に誕生日を持つ人間の中でもっとも早く生まれた記録を持つことになる可能性がある。これが0時1分台でもっとも早い人間、0時1分2秒台、0時1分2.1秒台で最も早い人などと細分化するとこの人類すべての人間が何かしらの記録を持つことになる。あくまでも例えばの話であるが、とめどなく無限に存在する記録の渦。きりが無い。
やはりこう観ていくと、「記録」として残すかどうかはその「記録」の持つ「価値」に全てが委ねられるのであろう。スポーツ競技などは、その価値を認められやすい傾向にあるようである。オリンピックなどはその良い例なのであろう。すごい記録を持つ人間が集まるのであるから、やはりオリンピックは恐ろしいイベントである。侮れない。信じられない瞬発力やバカバカしいほどの持久力を持つ人間がこぞって出場するのであるから当たり前である。自分も、見ていて驚愕の事実にあっけに取られることもあるが、ほぼ100パーセントと言い切って良いほど、一過性に過ぎないことが多い。感動はそこに介入しない。それはおそらく、自分の価値観をそこには反映できないからに他ならない。応援するスポーツチームがシーズン中の一試合をモノにするほうがよっぽど感動的だったりもするし、自分にとっては大切である。
この写真には、記録作りに携わった人間の一部しか写っては居ないが、本当にこの宴会を「宴」として楽しんでいる人間が果たしてどれだけ居るのかが疑問に思えて仕方が無い。本来、宴会とは複数の人数で楽しむ席。記録を出すことだけに価値を見出し、この宴に参加したのでは本末転倒ではないか。宴会の形をした別物。宴会で無いのであれば記録剥奪である。宴会特有のお酌や、歌や踊りがいったいどれだけ行われたのであろうか。はじめから割り切った形での席なのであれば、宴も酣(えんもたけなわ)といえる瞬間も訪れなかったのでは。あえて言うのであれば、ギネスブックに記録が記載された瞬間がそれに当たるのか。何だか寂しい宴会である。もちろんその場に居たわけではないがそんな気がして止まない。
話をもとに戻すとしよう。
「価値」をすべての人間が共有することは、ほぼ有り得ないといって差し支えが無いのではないか。自分たちも二人でこのブログを書いている訳であるが、100パーセント同じ価値観を持ってこれを書いてはいない。それでも何とかやっている。共通の認識と価値観を共有していてもやはり100パーセントではない。それぞれに良いと思えるモノと、そうではないモノを持っている。それで良いのだと思う。
前に読んだ小林秀雄の本に書いてあった一説を思い出した。その本が手元には無く、詳細については記載できないのが残念であるが確かこんなことだったと思う。
それは桜について書かれたもので、ここ最近は、桜といえば「ソメイヨシノ」であるとの風潮が象徴すべく、すべてがブランド志向となりつつあることを嘆き悲しむものであった。「春になると必ず咲く桜はすべて美しく、家の向かいの丘に咲く八重桜は誰がなんと言おうと美しい」と、小林氏は述べていた。
その通りである。「誰がなんと言おうと…」のくだりがすべてを語っていると思う。良いと思えるものは誰がなんと言おうと「良い」のである。たとえそれが記録を伴おうと、そうでなかろうと。
その価値観を他の人間と共有できれば、それ以上に喜ばしいことは無いのでは。
Art of 価値観
食材や準備に掛かった費用: 数百万円(推定)
ギネス登録諸経費: 数万円(推定)
「宴も酣」をちゃんと迎えることの出来る宴会: Priceless
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登録日:2006年 08月 16日 19:08:53
目
【臥龍/中国 8日 AFP】四川(Sichuan)省の臥龍自然保護区(Wolong Nature Reserve)内にあるパンダ保護研究センター(China Conservation and Research Center)で8日、3月に人工授精を受けたメスのジャイアントパンダZhang Kaが赤ちゃんを出産したと政府の報道機関が発表した。今回の出産は、同国の人工繁殖計画のものとしては最長の分娩時間で、産まれた赤ちゃんの体重も最大を記録している。写真はオリの中で人工授精を待つZhang Ka(3月21日撮影)。(c)AFP/LIU Jin
このまだ目も開いていない、産毛のうっすらと見える赤みがかった赤ちゃんを見て、これが一体何の生物だかを識別できる人間はほぼ居ないと思う。少し乱暴な見方をすると、「赤ちゃん = 可愛い」の方程式すら、その存続の危機に直面してしまう。しかし不思議なもので、「赤ちゃん」と銘打っただけで、やはり心のどこかの琴線に触れてくる実感は認識できる。
このパンダの赤ちゃんは、見ての通りに体の造りもアンバランスだし、きっと何一つ満足にこなすことは出来ないであろう。(このケースの場合)人の手を借りて、何とか成長していくことになるはずである。しかし、もう一度この写真をしっかりと見てもらいたい。この赤ちゃんに、たった一つだけではあるが、確固たる武器として与えられているモノがはっきりと捉えられている。そう、口である。どう考えても、その体の大きさにはそぐわない大きさを持つ口。もちろんお母さんのおっぱいを飲むためのその口なのだが、その大きさは半端ではない。しっかりとお母さんのおっぱいにしがみつき、「一度、口に入れたら絶対に離しはしない」と、言わんばかりで頼もしくも思えてくる。当たり前の話ではあるが、この口の大きさは確実に栄養を摂取するための生命のメカニズムであり、また我が子に宛てた母親からのプレゼントでもある。微笑ましく、壮大なスケールを持つ一枚として見えてくる。
先日、ある写真展を見に出かけた。それは、アラスカで撮影された写真によって構成された展覧会で、動物の写真や風景、そして極寒の環境下で暮らす人々を写したものが展示されていた。とても綺麗な風景や可愛い動物の写真が並ぶ中、一枚の写真に強く惹かれてしまい、釘付けとなった。その一枚とは、例の真っ白でコロコロとしたアザラシの赤ちゃんを写したモノであり、とてもかわいいのは周知の事実、ここで言及するまでも無いと思う。しかし、そこに写っていたのは被写体として存在していたアザラシの赤ちゃんだけではなく、この世界自体が写されていた。その大きな、今にも涙が溢れんばかりの黒くて丸い瞳に、周りの景色と共に撮影者の姿がくっきりと映りこんでいたのです。すっきりと晴れ渡ったアラスカの青い空と真っ白な雲の下でこのアザラシの撮影に臨んでいた撮影者の姿をはっきりと捉えていた。それを見た時、「はっ」とする自分をしっかりと認識した。我々だけがモノを見ているのではなく、その澄んだ瞳で、また彼らもしっかりとこの世界を見ているのだと。当たり前のことだし、「今更何を」との言葉が聞こえてきそうだが、その概念があのような形となって、目の前に見える形となってその姿を現したのですから、いくら頭で理解しているものとはいえやはりドキッとする。ある意味、寝首を掻かれた状態で、色々なことが頭を瞬時によぎった。
今現在、自分が認識しているこの世界と自分が小さいときに知っていた世界。同じ世界なのだがその様相はまるで違うものを映し出している気さえする。世界観やまたマクロとミクロの視点からの違いでは説明しきれない何かがそこにはあるはずである。小さい頃の記憶はある程度の限界を持って蘇ってくるが、その「ある程度の限度」の部分でとても大切なものが削られてしまっている気がして仕方が無い。一体、小さい頃の自分は何を見ていたのであろう? 今の自分では計り知れない「何か」をしっかりと見ていた気がする。
こんなにとても大切であるはずの現実をあの一枚の写真から、あの瞳から、再教育されるとは思ってもみなかったことだけが確かな事実として自分の中にある。
星野道夫
この写真の撮影者である。今は亡き写真家ではあるが、彼の存在はこの写真、そしてあのアザラシの見た世界を通して、これからの自分の心にしっかりと焼き付いた。少なくとも、この世界に彼が存在していた確固たる事実を自分は知っている。
Art of 目
自分は今まで、一体何を見てきたのであろう
そして、一体何を忘却してきたのであろう
このパンダの赤ちゃんも目が開いたらしっかりとこの世界を見るのであろう
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登録日:2006年 08月 09日 16:21:16
夏休み
【ニューヨーク/米国 1日 AFP】ニューヨーク、ボストン(Boston)、ワシントンD.C.(Washington D.C.)など、東海岸の広い範囲で、37.7度を超える記録的な気温が予測されている。この猛暑でエアコンの使用などにより電力消費量が増加し、すでにフル稼働の電力供給施設へ、さらなる負担をかけている。写真は1日、ニューヨークのハーレムで、暑さをしのぐために開いた消火栓で遊ぶ子供たち。(c)AFP/Timothy A. CLARY
やっと梅雨が終わり、気付くと8月に突入していた。子供たちにとってみると、夏休みに入ったばかりの気持ちで居られる7月が終わっってしまった的な時期でもある。自分の場合もそうだった。8月生まれの自分にとっては欲しいモノを誕生日プレゼントの形で手に入れることの出来るすばらしい月ではあるのだが、それは同時に夏休みの終焉を示唆するシンボルでもあった。そんな複雑な気持ちで子供ながらに新鮮な脳みそをフル活用していたのだが、そんな中でヒグラシが鳴き始めたりするともう最後、変な決心を心に決め、やり残していた宿題に手を着け始めた記憶が鮮明に残っている。約40日間の自分にとっては宝石の様な夏休みであった。
しかし、そんな子供らしい素直な気持ちも中学生の時にアメリカに行き、壊されてしまう。
当時、ひょんな事から家族共々アメリカに住むことになり、ニュージャージー州の緑豊かな郊外の小さな町に引っ越した。娯楽といえばボーリングか映画以外のオプションが無いほどの場所である。田舎ではないが都市でもない、アメリカ映画によく出てくるような町である。そんな町に3月だったと思う、何も考えずに生活の場を移し現地の学校に通い始めた。もちろん英語を巧みに操ることなど出来るわけも無く、見よう見まねのジェスチャーだけで滞在中は切り抜けようと思っていた。(当初は2年間のみの滞在予定であったが、はたして自分だけが10年以上も滞在することになるとは…)そんな軽い気持ちで渡米した訳だが、幸運にも登校初日から友達が数人でき、英語が解らないことを理由に勉強をほぼ完全に近い形で放棄する楽しい数ヶ月を過ごした。そんなある日、信じられないことを聞いた。日本では、入梅したばかりの季節である6月には夏休みだというではないか!英語の出来ない自分でも「June」と「July」の違い位は解る。聞き間違いではなかった。約3ヶ月も夏休みがあるのである。この瞬間、自分の世界観が音をたてて崩れ去るのがはっきりと解った。「この国のスケールの大きいのは国土だけでは無い」などと変に感動しているところに奴らは更にこの驚愕の上乗せをしてきた。宿題が全く無い。ここまでくると、「自分は本当にバカになる」的な危機感とともにこれ以上無い至福の時を思い浮かべ、誰に向ける訳でもなく感謝の意を表しものだ。日本に残してきた友人などはこの時期、受験に向けての準備で忙しくなっていたようだが、こっちではそんなことは全くお構いなしで遊びに興じた。高校も義務教育なので、中学生の夏休みは遊ぶための時間としてしっかりと整備されている。もちろん、これに当てはまらない例も在る。しかし、そんなことは知ったことではない。遊ぶために用意された時間に遊ばずに、いつ遊ぶというのか。日本では、いつぞやの「ゆとり教育」なるものが存在していたことはまだ記憶に新しいと思われるが、あんなものは生ぬるい。ゆとりとは名ばかりで、中途半端以外のなんでもない。子供たちやそれこそ親たちも困惑してしまうのは当たり前である。本当の「ゆとり」を提供するための整備が整う前に形から入ってしまった結果があれである。
話を元に戻そう。
しかし、余程の事が無い限りは子供たちにとって神聖なる夏休みではあるのだが、最近の中東情勢を見ていると、実際はどうなのであろうと思えて仕方が無い。中東地域の子供たちにとっても長期の休みはやはり楽しいはずである。それが夏なのか冬なのかは解りかねるが、普段の生活パターンに変化を付けるとの観点から見ると、少なからずプラスのベクトルがそこには働く気がする。平和があってこその夏休みといって片付けてしまってはそれまでなのだが。アメリカの提唱する、一歩も譲る気配を見せない「恒久的な和平」のお陰で、今年の夏休みが台無しになってしまっている子供たちが果たしてどれだけ居ることか。何百もの人の命を犠牲にしてまでも掲げる「恒久的な和平」は、さぞかし素晴らしいものなのであろう。この大義名分を掲げている大人たちも皆、夏休みを一度は経験しているはずである。そして紛争地帯の子供たちにだって、この「夏休み」を体験する権利はあるはずである。子供たちの普段の生活パターンに変化を付けることを大義名分に世界の情勢が動けば、どれだけ素晴らしいこととなるか。そうなれば普段、学校に通うことの出来ない子供たちも学校に通い、必然的に夏休みが生じるはずである。「世界平和」の持つ響きがあまりにも大きいのであれば、これからは「世界夏休み」で良いのではと、真剣に考えてしまう。
あまりにも、理想主義者的な考えであることは重々理解してはいるものの、やはりこの「夏休みの思い出」が占めるウェイトが今の自分の中でかなり大きいので、この経験は全ての人間に与えられる権利であると思えて仕方が無い。それぞれの環境によって思い出の形は色々だとは思えるが、 どのような形にしろ子供にとっての一大イベントとして記憶に残るはずである。
今、これを書きながら裏の小川で遊ぶ近所の子供2人の声が聞こえてくる。見ていても何をしているのか良く解らないものの、きっと彼らの中には2人だけの遊びのルールなどがしっかりと存在し、そのルールは彼らだけの夏休みの思い出としてくっきりと残るはずである。
Art of 夏休み
心にしっかりと刻まれる夏休みの思い出は皆が平等に持つ権利
思い出として残るように、しっかりと体験する子供にとっての権利
そして、しっかりと体験して貰うために課せられた大人にとっての責任
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登録日:2006年 08月 02日 17:27:26
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- 加賀美豪 と 牧谷光恵
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