2006年 11月

おじさんが家に来た

<第7回ラテン・グラミー賞>授賞式にJ・ロペスとM・アンソニー夫妻が登場 - 米国

【ニューヨーク/米国 6日 AFP】第7回ラテン・グラミー賞(The 7th Annual Latin Grammy Awards)の授賞式が2日、マディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)で開催され、各賞の候補者など豪華アーティストが登場した。
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(c)AFP/DON EMMERT

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おじさんが家に来た。 
このおじさん、そろそろ45歳となるらしい。 自分たちより10歳以上も年上であるにもかかわらず、ひどく甘えん坊であり、如何なものかと思えてしまう。 その上、思い通りに甘えることができないと家中をうろうろと歩き回り、 悲痛な声を上げるのである。 こっちとしては、たまったものではない。 しかし、ひとたびリビングルームで一緒にくつろぎ始めると、これぞ至福の時と言わんばかりの表情を見せる。 何とも単純でかわいらしいおじさんである。

感のいい人なら、もうこのおじさんが人間のおじさんで無いことがお解りかと思う。 こんな人間が家に来た日には、それこそ本当にたまったものではない。 おそらく、1日たりとも一緒には過ごすことができず、すぐにでも追い出してしまうだろう。 しかし、このおじさんはネコ。 ちょっと位のわがままも逆にかわいかったりもする。 

ある事情から、愛猫を手放さなくてはならなくなった人から引き受ける事となったこのおじさん、そろそろ5歳となるらしく、色々と調べたところ、猫の5歳は人間での45歳に当たるらしい。 本当に甘えん坊で、愛らしい目をくりくりとさせている割には結構お年を召しているこのおじさん、その年の割には結構遊び好きでもある。 今までも、色々とペットを飼ってきたし、周りからの話しを聞く限り、遊ぶことよりもゆっくりとすることを好む年頃のはずなのに、このおじさんはかなりエネルギッシュに動き回る。 侮れない。 

少し前にも書いたとおり、ペットと共に暮らしたかった所に転がり込んできた話だったので、本当にタイミングが良かった。 しかし前回のマリーアこともあり、初対面の時にはやはりドキドキとしてしまったが、やはりこのおじさん、今までずっと愛にあふれた生活を送っていたのであろう。 さすがに家に来た直後から、それまでと同じように振舞えるほどの図太さは持ち合わせては居なかったものの、そこまで順応不可でもなかったし、数日後には、すっかりと家のおじさんとなりきっていた。 家でずっと寝ているおじさんに。

しかし、来たばっかりのおじさんではあるが、5歳を過ぎると人間で言うところの成人の域を過ぎ、そろそろご年配のエリアに突入するらしい。 傍から見ればただのかわいらしいネコのはずなのに、中身はただの太っちょなおじさん。 如何なものか。 これからの老後を心配せずにリラックスしてすごすことが出来るように、しっかりと面倒なり、介護なりを世話してあげたいと思う。 

春には屋上に面した窓周りを修復する予定となっているので、おじさんも小春日和の暖かい日には、窓枠のそばにちょこんと座ってお昼寝をすることが出来るようになるであろう。 おじさんも気持ち良いだろうし、その幸せそうなおじさんの姿を眺めることの出来る自分たちも、また幸せな気持ちに包まれることであろう。 こうなると、自分のためだけの家の改装ではなくなってくる。 しかし、またそれも良いモチベーションとなるし、それどころか楽しい気分にもなってくる。 楽しく仕事をこなすことが出来る環境とは、ある意味において、理想的なかたちなのではないか。 そんな理想環境を提供してくれるこのおじさん、ダテに年をとってはいないようで、その辺のツボはしっかりと心得ている。 人生の先輩ってところか。

小さな、太っちょのおじさんが家に来ただけで空気中のリズムが少し変わったような気がする。

Art of おじさん
おじさんのひげは体の大きさから見るとかなり長い
ZZ Topのおじさんたちと同じくらいか
ただ、絶対数はかなり少ない

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登録日:2006年 11月 30日 21:57:15

再会

有名ミュージシャンや俳優がチャリティ・イベントに出演 - 米国

【ロサンゼルス/米国 19日 AFP/Getty Images】ハリウッドのアヴァロン(Avalon)で14日、音楽教育を支援する非営利団体、ギター・センター音楽財団(Guitar Center Music Foundation)が主催するチャリティー・イベント、「Evening with Ray Kennedy and Friends」が開催され、多くの人気ミュージシャンらがステージでパフォーマンスを披露した。
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(c)AFP/Getty Images Michael Buckner

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■久しぶりのスタジオ入り
先日、久しぶりに山のスタジオに行ってきた。 最近は引越しなどで忙しかったため、なかなかスタジオ入りする機会に恵まれずにいた。 とはいえ、今回も引越しの一環としてのスタジオ入りであって、作品製作のために向かったわけではない。 しかしこの時期、紅葉が見ごろ。 あの色とりどりの葉っぱは、本当に目に優しいし、和む。 

1ヶ月以上もご無沙汰となってしまった今回のスタジオ入りとなった訳だが、その価値は十分すぎるほどであった。 高速で東京の東の端から西の端へと車を走らせること1時間弱、高速出口を降りた瞬間からその景色を構成する物質が1時間前のそれとは全く違う。 もちろん、紅葉が綺麗なだけではない。 そして、そこからどんどんと山道を登り、その物質が密度を増すごとに何かとても親しく、そして気心の知れた感が自分の中からどんどんと湧き出てくる。 それはただ単に、久しく通っていなかった道を懐かしく思うそれとはまた違い、そこに存在する目に見えない波長が、自分のそれと少しずつ「シンク」する感じとでも言えばいいのか。 まあこの時期の凛とした空気が、そんな錯覚を起こさせるだけなのかもしれない。 

そんなことを考えている間に、果たして自分のスタジオに到着するのであるが、それはちょっとした再会となった。 そこにはしばらく会っていない誰かが居たわけでもないし、ただいつもの建物がいつもどおりに、そしてそこに無くてはならない何かの理由があるかのように、いつもの場所で必然的にたたずんでいるだけ。 しかし、それは再会以外の何物でもなかった。 なぜだろう、スタジオを見た瞬間に誰かとても親しい人間との再会を果たしたかのような優しい気持ちに包まれた。 スタジオとそれを囲む周りの景色が一体となり、自分の再訪をじっと待っていてくれたかのような錯覚に囚われた。 

■「再会」の意味
もしかすると「再会」とは、「また会うこと」における事象自体のためにある言葉ではなく、その瞬間に感じることの出来る気持ちを表わすための言葉なのかもしれない。 今回も自分の再会の対象はスタジオであり、正確には久しぶりにその建物を「見た」だけである。 「会った」訳では決してない。 それでも、とても心地よい感じを受けたのであるから、それは再会と銘打って良いのだと思う。 

久しく会っていない人間との再会を果たすことなく、同じような気持ちとなることも実はあると思う。 しばらく会わず、尚且つその人間の存在が記憶の端に追いやられてしまっていたとしても、何かの拍子にその名前を耳にしたり、知人から、その人間の近況を聞いたりした時に同じような気持ちに包まれる。 特に元気でやっていることなどを知った際には、その気持ちは倍増する。 それが、地球の裏側であろうが、はたまた地の果てであろうが関係ない。 大切なのは、誰もが元気で暮らしていることであり、変わらずこの地球上に存在していることである。 そして誰がなんと言おうと、一番大切なことは、その対象を心に刻むことではなかろうか。 対象が何であろうと、それが人間のような感情を共有できるような存在ではなかったとしても、自分の心にその相手が刻み込まれている限り、その再会は可能となる。 その対象は、家族、友達、恋人、元恋人、ペット、死んでしまったペット、旅先で出会った人、学生の頃の同級生や恩人から、それこそ一枚の絵や思い出の曲でも良い。 

いつでも再会を果たすことは出来る。
いつも大切なものはそこにある。
もちろん、実際に大切な存在と向き合えることの喜びに代わるものはなにも無い。

Art of 再会
何千曲と入っているiPodの曲をシャッフル再生した
久しく聞いていなかった曲を久しぶりに沢山聴き
Fleetwood Macの良さを再確認した

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登録日:2006年 11月 27日 15:39:29

エネルギー

人型ロボット「アクトロイド-DER2」 - 東京

【東京 2日 AFP】ロボット開発のココロは2日、「アキバロボット運動会2006」のプレス向け開会式で「アクトロイド-DER2」を披露した。「アクトロイド-DER2」は身長1メートル65センチの人型ロボット。写真は、披露されたアクトロイド-DER2(左)。(c)AFP/YOSHIKAZU TSUNO

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このサイトを見ているだけでもエネルギー関連のニュースが多数あり、いかに人間の生活にとってエネルギーが欠かせないものかが良く解る。 しかし、日々の生活の生活に欠かせないエネルギーであるからこそ、やはりそこには様々な問題も潜んでいる。 大きなものでは、核問題。 最近では、イランの核問題がそれにあたり、そのほかにも、ロシアのウクライナに対するガス問題なども記憶に新しいところである。 このように外交のカードとしても使われるエネルギーであるからこそ、その存在価値は絶大となり、その供給を絶つことにより一国に対する制裁の一手ともなりえる。

核から、石油、ガスに至るまで世界中には様々な形態でエネルギーがこの世には存在しているが、どれもこれも自分たちの生活に欠かせないものである。 そのエネルギーを使用することにより、寒い冬には暖を取ることが可能となり、逆に暑いときには涼を手にすることが出来る。 最近では一家に一台が当たり前となりつつある車にはガソリンを注入することにより、徒歩では到底たどり着くことの出来ない場所にたどり着くとも可能とあるし、飛行機ならジェット燃料で用いることによりこの地球上で行くことが出来ない目的地はほぼ皆無となる。 また、テレビのスイッチをひねれば、見たい番組はいつでも観ることができ、最近ではインターネットに接続すれば、オンデマンドで必要な情報が好きなときに手に入る。 もちろんこれらの機器には電気が必要となるものの、どの家にもコンセントはいくつも設備されているし、電気料金さえ滞納しなければ家電に命を吹き込むことが誰にでも簡単に出来る。 

さて、いくつかのエネルギーの形体について書いてみたが、忘れてならないのが自分たちのそれ、人間のエネルギーである。 当たり前の話であるが、人間は食べ物を必要としている。 食べ物を調理するためにガスや電気が必要となることはさておき、人間は食べ物を食べ、それをエネルギーと変え日々の生活を送っている。 しかし、それはあまりにも当たり前であり、普段はそれを忘れてしまっている。 少なくとも自分はそう。 しかし先日、人間にとってのエネルギーの存在をふとしたことから思い出した。 思い出したというよりも、驚いたといった方が正しいのであろう。 

夜遅くに、人気の無い建物の廊下をとぼとぼと歩いていたとき、稲妻のようなショックが自分の体を走った。 何てことだろう。 自分の背中、腰の少し上の辺りに刺さっていてもおかしくないエネルギーの供給源、延長コードがどこを探しても無いのである。 そう、「にょきっ」と出ていてもおかしくない、シッポのようなあれ。 それはとても不思議な感覚だった。 自分は、そして人間は皆、ワイアレスなのである。 平たく言うと、自分たちは有線ではないのである。 本当に当たり前の話であるのに、とても衝撃的であった。 その瞬間、自分の体の中にあるであろう、食べ物をエネルギーと変えるコンバーターの存在について考えこんでしまった。 今となっては、なぜこんなに当たり前なことに衝撃を受けたのかはわからないが。 

こんな経験をしたことはないであろうか。 コードレスの掃除機を買い、あまりのパワー不足に後悔したこと。 しかしそれとは違い、自分たち人間は外部エネルギーの供給源であるコードがささっていないにもかかわらず、とても力強く活動することが出来る。 人間はすごい。 コードレスなのにパワフル。 とてもよく出来でいるではないか。 本当によく設計されている。 頭が下がるばかりである。

でも、もう一度よく考えてみると、これはまったく逆な話で、本当は人間が基本となっているはずである。 人間のように動くことの出来ない、活動することのできないモノをいかに人間のようにエネルギッシュに「ファンクション」させるかを考え、最終的に辿り着いたのが、エネルギーの注入なのではないか。 人間自身がエネルギーを捜し求め、掘削し、そして作り出している。 言い換えると、仕方が無いから、延長コードを繋ぎ、そして、ガソリンを燃料タンクに注ぎ込むのである。 エネルギーの注入はそのほかにチョイスが無いために行っているに違いない。 人間にシッポのような延長コードがついていないのは、その必要が無いからなのである。 

よくよく考えてみると本当になんでもない話ではあるが、やはりちょっと不思議な気もする。

Art of エネルギー
自分たち人間はワイアレス機能搭載
充電は必要
それは楽しい食事

自分は食べることが大好きだ

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登録日:2006年 11月 19日 12:58:23

「心を通わす」

同性関係を法的に許可する条例案、メキシコ市議会で可決 - メキシコ

【メキシコ市/メキシコ 11日 AFP】メキシコ市(Mexico City)議会は10日、同性間の関係を法的に許可する条例案を国内で初めて可決した。
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(c)AFP/Omar TORRES

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少し前にも書いた通り、ネコの里親となるためにお見合いに行ってきた。
 
休みの日に車を走らせ東京を横断、一時的な預かり場所となっているシェルターへと向った。 さすがにお見合いともなると、自分にとっては一大イベント。 出かける前からそわそわとしてしまい、到着した後も、心を落ち着かせる時間が必要となり、すぐには現場入りできなかった。

いざ心を決めて、ビルの4階に位置する、以前はペットホテルと使われていたであろう一部屋に足を踏み入れた時、まずそのニオイに驚いた。 ペット飼育の経験がある自分でもあのニオイには腰を抜かすほど。 ペットホテルとは名ばかりのシェルターである限り、仕方の無いことではあるが、もう少し何とかならぬものか。 そのシェルターには15から20匹ほどのネコが保護されており、どの子もそれなりに可愛く、とたんに撫でてあげたくなってしまったが浮気はいけない。 シェルターの責任者にひとまず挨拶をして、問い合わせていたお目当てのネコちゃんの下へと足を運ぶこととした。 果たして、他の猫たちは自由に駆け回っているにもかかわらず、その子だけはケージに隔離されており、その瞬間何かがおかしいと感じた。 

話を伺ってみると、生後約1年半のこのネコは、保護されてから抱っこされることもほとんど無く、人間に対して心を開くことをせずにここまで生きてきたらしい。 見るからに人間を信用せず、不信感をあらわにするこの子を不憫に思う反面、自分の無力さもまざまざと見せ付けられる感じもした。 どうにかしてあげたいと思ってもどうにも出来ない。 どうして良いかわからない。 その場に立ち尽くすだけであった。 それまでは、色々な楽しいことを想像しながら、これからの生活の中で1エレメントとして存在するはずであったマリーアの面影は、このネコちゃんからは微塵にも感じ取ることが出来なかった。 いざ、本人を目の前にして、少しでも心の隙間を通して感じられる「愛情」の受け渡し、もしくはその可能性が感知できるのであれば、時間をかけてでもこの子を救ってあげることが出来るのに。 そんな、どこにぶつけて良いのかわからない悲しみと、怒りを抱えながら、自分たちはシェルターを後にした。

帰路、何ともいえないような空気に包まれ、自然と自分ら二人の間にもぎこちない雰囲気が漂い、楽しいはずの一日は完全なるシリツボミの形をとることとなり、少しけんかもした。 そんな中、自分らがネコ一匹の里親となることの難しさを話し合い、何度も「仕方ない」と繰り返したが、ぬぐいきれないやるせなさが消えることは決してなかった。 

生命のあるもの、それが一体なんであろうと、そこには心の存在がある。 その心の扉をいったん閉めてしまうと、そこから感じられるものは一切無くなる。 なくなるどころか、その閉じた心の周りをどんよりとしたものが覆い、内部に潜むであろう、暖かいものを一切感知させなくなる。 今回、自分らに悲しみを与えたものは、この部分。 マリーアの心の中にあるものをこれっぽっちも感じることが出来なかった。 自分たちが勝手に想像し、立てたプランが台無しになったからではない。 そんなことはどっちでも良い。 それよりも、マリーアの心そのものから外部のもの、すなわち自分たちを拒絶し、そしてこれからも拒絶し続けるかの如く、その小さな体に宿る心を閉ざし続けたから。 

変な話ではあるが、心を少しでも通わせることが出来るのであれば、色々な絵が見えてくる。 単なる妄想といわれてしまいそうな話ではあるが、実際にそれは見えるし、感じることが出来る。 しかし、マリーアは自分にそれをさせてくれなかった。 今まで、そんなことはありえなかったのに。 本心から、それを拒絶した。 思い出す今でも悲しみがこみ上げてくる。

色々な面で自分にもう少し余裕があったのなら、違う結果となっていたのか...

Art of 「心を通わす」
単なる言い回しではない
そこから全てが始まる
今回、それを痛感した

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登録日:2006年 11月 11日 21:15:37

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帰国後、人生の荒波にもまれながらも作品制作継続中。

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