2006年 12月

アート

幸せを運ぶビール?ボトルの表面に微笑むブッダ - オーストラリア

【シドニー/オーストラリア 20日 AFP】緑色のボトルの表面に「微笑むブッダ」のレリーフが施されたオーストリア製ビール「ラッキー・ビール(Lucky Beer)」が話題を呼んでいる。このライトビールを製造したPhilip Smouha社によると、「飲んでいる人の顔にも幸せの微笑みが浮かぶように」との願いをこめて、このボトル・デザインが採用されたという。写真は21日、シドニー(Sydney)のオペラハウスの前で撮影された「ラッキー・ビール」のボトル。(c)AFP/Torsten BLACKWOOD

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時間的に考えても、このエントリーが今年最後のものとなるはず。
毎回、月4回を目標に書いてきたこのブログではあるが、いつも月末には「どうしよう」状態となっていたのが現状。 今回も、もちろん例に漏れずこんな時間となってしまった。 1週間前には、ゆっくりとした大晦日を過ごす予定となっていたはずだったのであるが、事はそううまくは運ばないらしい。 自分のルーズさを考えたら当然の結果である。

で、一体何を書けばよいのやらと迷いつつも、こうしてキーボードを叩いているわけであるが、なんとなく、このような流浪なペースでことを進めるのもまた一考かと思えてきた。 読み手にとってみたら、失礼極まりないことも承知している。 しかし、ここはひとつ皆様に甘えてみようかと。 今までも、のらりくらりと書き続けてきたわけであるし。

さて、数ヶ月間にわたってしつこいほどに「Art of …」と書き続け、半分押し付けがましく日常のなんでもない事象を取り上げてきた訳ではあるが、ここいらでその真意をほんの少しだけ明かしてみたいと思う。 

自分たちはいわゆる「アート」に携わって毎日の生活を営んでいる。 かといって、毎日のようにキャンバスと向き合い、苦悩する日々をすごしているわけでもない。 木槌とのみを握り、木の塊の中に存在する「形」を見極めるため何時間もの間、じぃっと座り込むこともしなければ、モノを作ることに全情熱を注ぐこともしない。 それは「アート」に携わるうえでの絶対的存在では無い。 少なくとも自分たちはそう思う。 

「アート」はモノでは無い。

平たく言うと、彫刻や絵画、そしてパフォーマンスなどの「表現」だけが「アート」として存在するのではない。 商業主義において、モノに価値付けをしなくてはならない行程があるために、何かしらの形あるモノが必要なだけなのである。 それは果たして、彫刻であり、絵画となる。 いたって自然な成り行きで、それはアーティストが表現し、作り上げた「プロダクト」にその価値を置くこととなっただけの話である。 

そうすると、歴史上何度も繰り返されてきた質問が飛び出してくる。 
「アートってなに?」
はっきりとした言葉でそれを指し示すのは難しい。 しかしそれは確実に存在する。 そしてそれは、アーティストの特権でもなんでもない。 ただ、それを言葉にすることが難しいのは、そんな定義が存在しないところで、無理やりそれを言葉にしようとしているから。 「アート」の定義なんてものは、少なくともパブリックになりえない。 あるとすれば、個人個人のなかに存在するくらいである。 モノに価値を与えるのも、そしてそれを見出すのも、本来ならば個人の仕事であり、決して識者や専門家の口出しする幕ではないはずである。 自分が好きな食べものを料理専門家がいくらけなそうとも、それはやはり自分にとっておいしいものに変わりはないし、そこで嫌いになることの方がよっぽど難しい。 「アート」もそれと同じである。 いや、好きな食べ物を食べて、幸せな気分になれること自体が「アート」であってもおかしくは無い。 自分の価値観を大切にすること、「アート」とはそれ以外のなんでもない。
 
こんなことをいくら書いたところで、説得力が無いことは百も承知している。 それだからこそ、過去数ヶ月間にわたり、何の脈絡も無いような事をだらだらと羅列してきた。 しかし、どれひとつとってみても、自分にとっては大切なことであり、信じていることとなっている。 心が直に反応すること、それが一番大事に思える。 自分たちはそれ以外の「アート」を知らないし、尚且つそれ以上のものも望んではいない。 

究極的には、大切なものが「アート」と呼ばれようがそうでなかろうが関係ない。 ただ単に大切なものは大切なだけ。

Art of 「アート」
「アート」は等身大

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登録日:2006年 12月 31日 20:29:15

カット屋さん

ドイツで最も有名な失業者、SPD党首の後援で就職なるか - ドイツ

【ベルリン/ドイツ 22日 AFP】ヘンリコ・フランク(Henrico Frank)氏(37)は、現在ドイツで最も有名な失業者だ。
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(c)AFP/DDP/THOMAS LOHNES

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今日、自分も髪を切った。 
約5ヶ月ぶりとなるカットとなったわけだが、たったの5ヶ月で自分でも本当に鬱陶しく思うほど、耳やら目の付近に攻め入ってくるようになった。 色々と理由を付けては後回しにしていたカットだったのだが、終わってみるとやはりサッパリとする。 前にお世話になっていたところのカット師によると、ほとんどの人が「やることリスト」の最後に髪を切ることを位置づけするらしい。 それでも、ほとんどの人は約3ヶ月のインターバルを持って来店し、サッパリとなって帰っていくと話していた。 中には毎月訪れる人もいるらしいが、やはりそこまでマメな人間は稀だそうである。

少し前に引っ越したため、今回は新しいカット屋さんにお世話になることとなった。 どこで切って貰えば良いのかがわからず、髪を切るのをズルズルと引き伸ばしていたことも事実ではある。 しかし、そんなことばかりは言っていられないほど伸びてしまったため今回ばかりは覚悟を決めた。 いざ入店すると、一体何を今まで躊躇していたのかがわからなくなる位、店員さんたちはとてもフレンドリーであった。 その瞬間、ふっと自分の緊張がほぐれる。 その辺はさすがにプロである。 プロといえば、いつも思うことがひとつある。 カット師さんたちは誰もが話し上手である事実。 カットの腕はもちろんのこと、話をスムーズに進める技術までをも求められる職業なのではないかと。 毎回、お世話になるたびに思ってしまう。 もちろん寡黙で腕一本で勝負する昔気質な床屋さんも存在するのであろうが、最近の比率から見るとおそらく少数派に属すのであろう。 どっちにしても、侮ることは出来ないプロ集団である。

しかし、そんな話し上手なカット師さんたちではあるのだけれど、初めは当たり障りの無い部分で探りを入れてくる。 そこからどのように話のピンポンを展開させるか、頭の中で作戦を立てているかのようにも見える。 季節ネタや時事ネタ、そしてお洒落に興味のありそうなお客さんにはその日のコーディネートについて話を進める。 決して悪いことを言うことは無いので、お客さんの気分を害すことは皆無と言って差し支えないであろう。 そんな巧みな話術を余すことなく発揮するカット師ではあるが、髪の毛を切るその手は決して止まることは無い。 あたかも話をすることで、カットのリズムそのものが作られるかのようにも見えてくるから不思議。 しかし、そんな手を止めるさせることも実は可能である。 もちろん、「ちょっとその手を止めてください」と、言うわけではない。 そんなことを言っても逆に変な顔をされるだけである。 そうではない。 さりげなくその機械仕掛けのような手を止めさせなくてはならないのである。 

さて、その手順を説明しよう。
まずはカット師との話を楽しむ。 その間も相手の話術を堪能して貰っても構わない。 しかし、注意しなくてはならないのは、相手のペースに飲み込まれてしまっては次の手順に進むことが難しくなるので、意識はしっかりと保たなければならない事。 少し経つと、お互いのことを少しずつ理解し始める事になるはずなので、心の準備を始めよう。 普段なら、この後も話をスムーズに進めるべく、話の文脈をたくみに拾いながら手を動かし続けるカット師がそこにはいるはずである。 しかし、そこですかさず一言発してみよう。 もちろん何でも良いわけではない。 ここまでの短い時間の中で色々と気付いたことがあるはずである。 大切なことは、ここまでの時間である程度の良い関係を築けてなくてはならないので、心を閉じっぱなしにしたままでの対話だけは避けなくてはならない。 お互い人間同士、多少なりとも通じる何かを感じられるはず。 その感じることが出来たものを一言、ぽろっと発してみて欲しい。 多分、そのマシーンのような手がふと止まるはずである。 それも、とても自然に。 その瞬間は、カット師としてのプロフェッションを置き去りにして、一人の人間として対峙してくるのである。 そして、お話がカットのためのリズムマシーンとなるのを止める瞬間でもある。

あたかも長年の友達のような錯覚をも受けるこの瞬間はとても不思議であるし、なおかつ少しうれしかったりもする。 このひと時は、客と主人との関係は消え去り、人間同士の関係が構築され、髪の毛を切ることは影を潜める。 髪をカットして貰うことが目的であるのに、それ以上のものを手に入れることが出来たような幸せな気持ちになる。 

蛇足ではあるが、カット師の手を止めること自体にウズウズとした快感を覚えてはいけない。

Art of カット屋さん
ハサミの音に耳を傾けてみる
とても良く切れそうな音がする
実際に指もザックリといってしまうそうだ

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登録日:2006年 12月 22日 18:22:22

眠れない夜

CTスキャン検査を受けるアオウミガメ - イスラエル

【テルアビブ/イスラエル 26日 AFP】25日、テルアビブ(Tel Aviv)に近いBeit Daganにある獣医センターで、20歳のアオウミガメのFenderがCTスキャンの検査を受けた。Fenderは6か月前にイスラエル側の地中海沖で漁師が捕まえたもので、肺に過剰な空気を取り込んでいるため、今回の検査が行われた。写真はCTスキャンの検査を受けるFender。(c)AFP/OFER VAKNIN

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なにやら定期的に訪れる眠れない夜があるらしい。 
どれくらいの期間を置いて訪れるものなのかは良く解らないものの、確実に眠れない夜はある。 早起きをしないといけない時に限ってやってくるような意地の悪い奴である。 そんな時は、どれだけがんばっても眠りに落ちることは出来ず、かえって目がさえてきたりもする。 どなたにも経験のあることとは思う。 そんな時は変にあせらず、白旗を掲げることもまた一手かと思えてきた。

先日もこの意地の悪い奴が訪れた。 翌日、仕事が控えているにもかかわらず、一向に眠りの世界にいざなってくれるものは何も無く、気持ちばかりが先行する最悪の状況となってしまった。 しかし、数十分が経過したであろうか、ふとあることに気がついた。 自分の頭の中が、本当に自分のそれかと疑ってしまうほど、とりとめも無い事柄ばかりがグルグルと駆け巡っていたのである。 普段なら全然気にもしないような事柄、また記憶の端に留めていることすら長い間忘れていた事柄など、どのような関係を持って現れてくるのか常人には分かりかねる文脈を持って次から次へと現れては消え、そしてまた現れては消えるのである。 普段ならイライラとさせるだけのこのような現象を、今回ばかりは共存させることを許してみた。 するとどうであろう、下手な映画やテレビ番組を見るよりもはるかに面白いではないか。 ディズニーもびっくりである。

小さい頃に母とともに買い物に行った際、買い物の邪魔にならぬよう、買い物フロアの片隅に設けられている、小さなスナックコーナーとでも言おうか、たこ焼きや、アイスクリーム、ジュースなどを販売する店舗でよく紫色のアイスクリームを買って貰ったものである。 おそらく、同じような手法をとるお母さんたちが多いのであろう、子供たちが楽しそうに戦利品のスナックをほおばっていた。 しかし、そんな光景のことはすっかりと忘れていた。 そのデパートはいまだにそこに存在するものの、そのスナック販売店は影も形も無い。 30年近くも前のことである、記憶の片隅にも残っていなかったのに、あの紫色のアイスクリームの味や形、そしてその周りの風景やニオイまでが、先日の眠れない時間に甦ってきた。 まったくもって驚きである。 

クワガタ、おそらくあれはノコギリクワガタであろう。 それは、おもむろに目の前に現れた。 ムシ嫌いな自分なのに、そのクワガタにはこれっぽっちも恐れをなすことが無かった。 それもそのはず、そのクワガタはコンピューターグラフィックスのように3D的に全角度から検証できるよう、フラットな画面で現れたのである。 所謂、黒いスクリーンに細い緑色の線が縦横に張り巡らされている画面上の真ん中で、360度自由自在にローテートしていた。 そのうち、クワガタのはさみの内部が気になり始めた矢先、驚くことに自分が見ているその生き物が見事な輪切り状態となり、その中身を見ることが可能となった。 解りやすく説明すると、クワガタのCTスキャンのようなものを見ることが出来た。 その見たものに対し、何一つ感動することも無く、ただ単に見ている自分がそこにはいたのもはっきりと覚えている。 

おもしろいことに、こんなイメージを永遠と見続けている自分の意識はある程度しっかりとしていたらしく、今でもはっきりと色々と覚えている。 半覚醒のような状態であったのであろう。 イメージはイメージ以上のナニモノでもなく、アイスクリームをほお張っている時には、自分がその主人公とはなっていなかった。 夢であれば、自分は小さい頃の自分となり、そのアイスクリームを楽しんでいることとなっていたはずである。 しかし、自分はそこに居るにもかかわらず、しかし、そのシーンの一部とはならず、周りの子供たちは自分の存在をこれっぽっちも気にすることは無かった。 あくまでも、自分はそのシーンを「観ている」のである。 入れ替わり立ち代りするすべてのモノを、自分はただ観ているだけなのである。

そうこうしている内に、いつの間にか寝ていたのであろう。 気付いたら起きる時間となっていた。 起きた後も起こったすべてのことはすべて覚えていたし、夢の記憶のように「おぼろ」ではない。 だからどうしたってことは何一つ無いのであるが、ただ単に自分の脳が勝手に働いたような感があり、面白かっただけである。

Art of 眠れない夜
もしかすると眠れない夜には意味があるのかもしれない
制御され続ける脳に休暇を与えること
自由行動の時間を与えること

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登録日:2006年 12月 19日 17:58:57

りんご

先日、何気なくテレビをガチャガチャと回している時、たまたま放映していたりんご栽培の番組に強い感銘を受けた。 

夫婦2人で営むこのりんご園、限りなく自然に近い形での栽培方法をとっていた。 農薬はもちろん、肥料などを用いず、さらには作業効率を数倍にも上げる農作業用機械の使用をも拒んでいる。 二人とも以前使用していた農薬に対し、強度のアレルギー症状を示したらしく、それ以来、いかに農薬を使用せずにりんごの収穫が可能となるかを研究し続けたらしい。 正味8年間、農薬絶ちを決心してからの格闘が続いたらしいが、自分の身に置き換えて考えてみると、8年とは本当に長く、それこそ、気の遠くなる時間である。 というのも、この8年の間、1つのりんごも収穫できなかったらしい。 りんご農家でりんごが収穫できない。 8年間、生業としているりんごで生計が立てられないのである。 そればかりか、研究費は掛かるであろうし、そこには想像に絶する心的ストレスが伴うはずである。 言葉にしてしまうと、本当になんでもないようだが、長年迷惑をかけた家族に対し、自分の命を絶って償おうと思った時期も実際にあったそうだ。

そんな時に出会ったのが、現在の師匠であり、農薬の使用を絶つ上で目指した「自然」そのものであったそうだ。 おかしな話ではあるが、結局のところ、目指していたものを崇めすぎ、本当はすぐそこにあるはずの自然そのものに目をやることなく「自然」の観念だけを追い求め、それ本来の存在を端に追いやっていたことから生じてしまった苦悩に満ちた8年となってしまったと言うのである。 きっと彼の本来持ち合わせているまじめな性分がそうさせてしまったのであろう。 しかし、その一途なまじめさがこのターニングポイントから十二分に威力を発することとなる。

自然の状態、それは、農薬を使わずに肥料をやらないことだけではない。 当たり前の話ではあるが、自然の状態においては、地面から雑草は生え放題となり、またさまざまな雑菌も野放しになる。 そして、農作業用機械が地面を踏み固めることも無いので、土はとてもやわらかい。 しかし、それで良いらしい。 人間に出来ることは、そこにほんの少しだけの愛情を加えてあげるだけだという。 もともと、りんごなどの果実は自然からの贈り物であるから、そこに人間が無理な力をかけて搾取するようなやり方は間違いなのである。 

本当に素敵な考え方だと思う。 一生懸命に生きて、それでも旨く行かず、一時は死を覚悟した人間だからこそ、その言葉にずっしりと重みを加えることが出来るのであろう。 同じ言葉を自分が吐いたとて、そこには決して同じ重さを感じることは出来ないであろう。 超えたくても超えられない何かがそこには存在する。 本当に一生懸命に生きる人間だけが持つことの出来る特権なのである。 ここで再現することは出来ないが、画面を通して見えてくる彼の笑顔は実に屈託無く、それこそ無邪気に笑う子供の様でもあった。 まだ50代半ばだそうだが、見事に歯は抜け落ち、その顔に刻まれているシワはとても深く見えた。 失礼な話であるが、とても容姿端麗とはお世辞にも言えない風貌であったものの、その笑顔は誰にも負けないくらいの力が込められているように感じた。 

厳しさと優しさは、やはり表裏一体のようだ。 りんごのおじさんはそのことをりんごに教わり、自分は、そのことをりんごのおじさんに教わった。 

Art of りんごおじさん
おじさんは、りんごを自分と同じ生物として尊重した
この地球上に同じく生きるものとして
だからりんごはそれに素直に答えた

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登録日:2006年 12月 14日 16:30:28

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加賀美豪 と 牧谷光恵
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ビジュアルアート修士課程修了(米国)
帰国後、人生の荒波にもまれながらも作品制作継続中。

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