2007年 08月 28日

「人」

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す

【8月27日 AFP】カトリック教会の「聖人」に限りなく近いとされるマザー・テレサ(Mother Teresa)がしたためた私的な手紙が、近日出版される書籍の文中で公表される。
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(c)AFP

AFPBB News


■神の存在

そんなものは、きっと誰にも証明できない。 この広い世界で、「神の啓示を受けた」と証言したところで、それ自体は何も証明するものではないし、周りの人間にとってみたら本当に啓示があったかどうかなんて知る由も無い。

貧困にあえぐ人々を目の前にして、何一つ好転しない状況が長期にわたって続き、神の奇跡を待ちわびるだけの日々の中でマザーテレサがその存在に疑念を抱いてしまうのも無理も無いのではと思う。 もちろん、その場に居なかった自分がその状況について簡単に書いてしまうのはあまりにも危険すぎることを承知で進めたいのだが、おそらくあまりにも過酷で、そしてあまりにも絶望的な光景だったのであろう。 一人の人間としてその場に存在し、そして人間の持ち合わせている五感全てでその悲惨の状況を感じ取り、「イメージとして感情にうったえかけてくる貧困」ではない現実を全身で「味わった」のではと想像する。

■毎日が「死」に囲まれること 

「毎日が死と隣り合わせ」という言葉は良く耳にする。 もちろん映画や小説にみる言い回しとしてだが。 たいていの場合、危機的状況に置かれた物語の主人公やら登場人物が発する言葉で、周りを敵対する存在に囲まれ、緊張状態が持続している状況を表わす。 しかし、マザーテレサの場合は、その「緊張状態が持続している人々」に囲まれる日々が続くのである。 言わば、「死と隣り合わせの存在」と隣り合わせの状況で日々を送っていたことになる。 この状況は、前者のそれよりもさらに過酷なのではないか。 自分に襲い掛かってくる敵に対しては、逃げる、戦う、かわすなどのアクションも取れるだろうが、そのターゲットが他者である以上、そのアクションを当事者の代わりにとることは出来ない。 その状況では、ただ傍観するしかない。 もちろん、何かしらの手助けは出来たとしても、それはあくまで手助けであって、本質的なアクションとはなりえない。 そのような「貧困」という名の敵の攻撃に対し、本質的な部分で何も出来なかったことがマザーテレサの苦悩となって、今回出版される手記に綴られたのではなかろうか。

■「人」

しかし、事はそう単純ではないような気もする。 「敵と味方」「善と悪」といった2言論でこの世の事象は説明しきれないはず。 もちろん人々を苦しめる貧困は招かざる客だ。 しかし、その状況の中でも「人情の機微」とでも言ったら良いのか、人間に希望を与える出来事や言動も存在し、この場合はマザーテレサの「行動」に当たるのだが、自分はこれを完全なる「善」との位置づけをどうしてもすることが出来ない。 というのも、マザーテレサの行動の根幹にある感情は「善意」に他ならないとしても、それを受け止める側の人間が存在して初めて意味を成す事象だと思える。 行動を起こす側とそれを受け止める側、そしてこの連鎖反応が大きな力を生み出すのではないか。 一人の人間の「善意」が「感染」し続けること、これこそが「悪」ではないものとしての存在となりえる。 では、それは果たして何か。 自分はそれを「人」としか言いようが無い。 人と人とのつながりがあって、初めて全ての事象に「意味」が発生する。 1次元や2次元の存在が3次元をもって初めて論理的に説明出来るように。 

連鎖反応とは、言葉の通り2つ以上の個体間における「反応」に他ならないので、それがたどるコースは誰にもわからない。 それが「善意」のものか「悪意」のものかなど、その受け取る側の判断に委ねるしかない。 この世に「絶対」が存在しない以上、どうしようもないのだが、もし自分が伝える側に立った際には、次に手渡す「責任者」として、少なくとも自分が信じられることを伝えたいと思う。

Art of 「人」

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登録日:2007年 08月 28日 11:40:25

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