そらのえほん

ビーナス・エクスプレス、ついに金星の周回軌道に乗る - ヨーロッパ

【ヨーロッパ 12日 AFP】欧州宇宙探査機「ビーナス・エクスプレス(Venus Express)」は現地時間11日遅く、地球から4億キロメートルの旅をした後、金星の周回軌道に入った。写真は、欧州宇宙機関(European Space AgencyESA)が公開した、ビーナス・エクスプレスに搭載した「可視・赤外分光撮像装置(VIRTIS)」で撮影した、金星南極上空の合成画像。(c)AFP

AFPBB News


小学生のころの話である。布団にもぐりこみ目を閉じると、さっきまで点いていた部屋のあかりの陰影がまぶたの裏でアメーバのように生き続け、まもなくそれは細微に分散した光る砂のような姿になり、まぶたの表層をぐるぐると回転し、そのひとつひとつがやがて黒い闇の奥へと吸い込まれるように消えていく。暗黒のまぶたのスクリーンに繰り広げられる光の饗宴を、まるで宇宙のようだと私は思ったものだ。意識しなければただの闇、しかし意識すればするほど明確に眼前にせまりくる私だけの小宇宙。
...

幼いころに私が抱いていた最大の疑問をあげるとすれば、それは「なぜ私がこの世にいるのか」ということである。「私」の存在がなければ、この世のことを知ることはできない。なぜここに、こうした姿かたちで私は息を吸って生きているのか。どうして寒い、熱い、心地いいと感じ、悲しい、嬉しい、退屈だと思うのか。それをつきつめて考えていくと、幼い私の疑問はいつも宇宙の存在へとたどりついた。

幼少期を送った1970~80年代前半、すでに米国探査機のアポロが月にたどりついていて、人々は人類未踏の宇宙にいっそう現実的に関心を寄せていた。「2001年宇宙の旅」(すでにいま2001年をすぎているからすごい)などの洋画はとっくの昔につくられていて、テレビ番組では「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」、「機動戦士ガンダム」や「宇宙艦隊マクロス」のような宇宙物アニメが隆盛して、人間が宇宙船に乗って宇宙戦争やら宇宙恋愛やらを繰り広げていた。

私が一番好きだったのは「銀河鉄道999」。クラシカルな蒸気機関車の格好をした列車で宇宙を旅しながら、いつも根底に流れるのは人間のドラマだ。宇宙とはいえ終着駅があるという人間的でロマンチックなストーリーラインは何度見ても飽きなかった。最近は、SFどころか宇宙の姿を映像を通してより間近に見ることができるようになり、ただただ科学の進歩に感心するばかりである。

宇宙には果てや終わりがあるのだろうか。ブラックホールが「果て」ということでもあるらしい。しかし「果て」ときいたら、わかりやすく壁があったり、崖があったりするような境目がほしいものだが、それは依然人間が地球レベルでしか生きていないからだろう。

きっと宇宙にはそんなちゃちな想像にも及ばない、人知の域を超えた「なにか」が存在している。ただその「なにかが存在する」というアイデア自体が、私の幼いころからの疑問を再燃させる。そもそもなぜ宇宙が存在するのか、そんなことを考え始めたら、大げさでなしに夜も眠れなくなる。

その昔、人々が天動説を信じていたころを想像してみる。自分たちが踏みしめている大地、それは天体という球状をしたもののうえにあるということが知れたときの驚きは、いまの人類が宇宙の果てを仮にみたときと同じような「大事」であったに違いない。昔の人々は空を読み、海を読みながら旅をしてきた。それが科学の進歩により、ヴェルヌにSF物語を書きたらしめ、リンドバーグに大西洋横断飛行をたらしめうんぬん…と、めざましい速さで世界というものを知っていった。

人類もやがて地球を本格的に旅たつときがくるだろうが、それでいて、なぜ宇宙が存在するのかを知ることはあるのだろうか。そうしたら宇宙的人類社会で、「銀河鉄道999は地球連合国日本州の古典宇宙旅行物語の名品」などといわれ、研究されたりするのだろうか。

ニュートンの万有引力の法則で、地球上におこりえる95%の物理的現象は説明しえるという。人間がいまこうした姿かたちで二足歩行をしているのも引力とのバランスがあるからこそである。では人類が宇宙に出ていって、重力の影響が地球と異なる環境で繁殖していったら、人類はいまのような形で進化はしていかないのではと考えてみる。人類はやがて違った生き物のように姿をかえていく。そこで「時空のねじれ」などをぬってやってきた宇宙人は、実は地球を思慕して遠い未来(あるいは過去)からやってきた超人類なのかもしれない。などと、科学的な理屈とSFがごっちゃになって想像はよどみなく広がっていく。

人は銀河系規模でいえば究極のミクロでしかない。それでも人はひとりひとり脳を持っていて、考え、感じ、生きていく運命にある。多くの宇宙学者や数学者たちが宇宙の謎について盛んに研究を進めている。重要なテーマとなっているのは、この宇宙に人類のような知的生物がほかにも存在しえるのか否かということだ。たぶん、存在するのだろう。存在するとして、人間も含め宇宙に生物が存在する意味とはなんなのだろう。意味なんて本当はないのだろうか。知らなくてもいいようなことを知りたいと「感じる」以上に「考える」こと自体が人間のなせるわざ。人間が自称する「知的動物」性もそう考えればちょっとこっけいだ。すべてがわかったら、はるかむかしから人類はどのような形であれ神の存在に頼る必要もない。

カテゴリー[ 旅 ], コメント[1], トラックバック[0]
登録日:2006年 04月 19日 02:54:33

コメント

最近「ドラえもん」の最終回のオンライン版(非公式?)を見る機会がありました。小学生のとき、のび太より年下だったのに、あっという間に歳を越して、いまではのび太と同じ歳の子供を持つ友達がまわりに増えてました。幼いころ、未来はとても遠い存在に思えました。21世紀を迎えるころには、私はいくつになっているのだろうと指より数えてその年代を覚えたものでした。人類は確実に科学を進歩させているけれど、実際にまのあたりにしたものは、昔夢見た未来よりもずっと現実的で、人間の臭いがただよっています。ひょっとしたらこうした人の臭いも、もっともっと未来になったら消えていくのでしょうか・・・・。
ふと、つい最近よくお仕事をご一緒させていただいている熟年のフォトグラファーKさんがいっていた言葉を思い出しました。「ねぇFちゃん、ボクだってこうやってデジカメなんか使うようになったけど、自分自身驚いていることはいるさ。小さいころから、いろいろな便利な製品が世の中に出てきて、そのたびにスゴイ!って感動していたものだよ。でもさ、ひとつの製品や技術や考え方が新しくでてくるたびに、スゴイなー、便利だなー、科学は進歩しているなーという感覚、昔もいまも結局かわらないんだよね。そのつど、本当にすごいなと思っているわけだからさ。だから今がとりわけすごい、と度肝をぬくことはないなぁ。なんでも積み重ねがあってこそいまがあるわけだから。これから先だってどうひっくりかえったってすべてが見渡せるわけじゃないしね」

mika @ 2006年 04月 28日 04:38:33

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福嶋 美香
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◆経歴:ふくしまみか
ライター・ジャーナリスト・エディター。東京生まれ千葉育ち。千葉県八千代市在住。玉川大学文学部外国語学科を卒業後、広告制作会社、新聞社勤務を経てフリーランスとなり、日本や海外で活動中。「ガンダーラ・ハウス」は気軽なエッセイ集です。近況などは上記「ブログ」のリンクからどうぞ。
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