ダビデの星

イスラエル首相、米大統領と初会談 - パレスチナ自治区

【Maale Rehavam/パレスチナ自治区 24日 AFP】23日、イスラエルのエフド・オルメルト(Ehud Olmert)首相はジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領と初の二者会談を行い、中東和平プロセスならびにイランの核開発問題について話し合いを行った。
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(c)AFP/MENAHEM KAHANA

AFPBB News


人類史上でもとりわけ長く民族宗教の歴史を包括する人々の世界は、表層以上に奥深い。これまでになされた科学的発明や哲学的論拠を形づくってきた人々の多くがユダヤ教徒であることも、たぶん偶然ではないだろう。最近、生まれて初めてユダヤ教に関するレクチャーに行く機会があった。近くにある大学キャンパス内の一講義室で、誰でも無料で参加できる類のものである。主催はCCJ(Council of Christians and Jews)と呼ばれる、キリスト教徒とユダヤ教徒のためのカウンシルで、講義は保守派のオーソドクス派の歴史学者。高い鼻と落ち窪んだ黒い瞳を持つ魅力的な風貌のユダヤ歴史家は、オーソドクスの信者らしく頭にユダヤ独自の小さな丸い帽子をかぶり、参考図書などを例にあげながらわかりやすく話を展開してくれた。
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レクチャーのテーマは「ユダヤ人 イエス」。言葉通り、「ユダヤ人としてのイエス」を考える内容である。日本ではあまり真剣に語られることがない話題かもしれないが、これはユダヤ教やキリスト教、そのほか神学を考える上では重要な議題のひとつである。

ユダヤ民族が生んだ著名な預言者のひとりとしてのイエス。そしてキリスト教のイエス、つまり神の子であり救世主としてのイエス。いずれもユダヤの胎内から生まれたものである。ユダヤ教の教えの中ではイエスは特筆すべき預言者ではあるが、メシアではない(当然ながらイエス・キリストとは呼ばれない)。

講義で特に強調されたのは、イエスが生まれ、十字架にかけられるまでの経緯を考えるとき、異邦ローマ帝国の圧政に苦しめられていたエルサレムとユダヤ人の状況、圧倒的な政治ないし経済力といった、世の中を構成し連続するすべての事柄と、当時大きく揺れ動いたユダヤの誇りもろもろの背景なくして、イエスそのもの性格や魅力、思想や目的、意義そして欠点までも考えるわけにはいかないということである。

そのとき、その場所で、なにがおこったか。まさに「歴史はそのとき動いた」がゆえに、イエスは今日に語られるまでになった。ユダヤ教においても、イエスは特筆すべき存在として史上に姿を現したことは見逃すべきではなく、またイエスについて研究をすすめるのは、ユダヤ教徒にとっても、キリスト教徒にとっても価値あることであるという。

こうした「ユダヤ人としてのイエス」を公然と話をする機会が設けられるようになったのも、この100年しかも20世紀も半分をすぎてから以後にすぎないという。つい100年前まで、「イエスがユダヤ人である」という見方は一般的にはタブーとされ、快く受け入れられる社会ではなかった。もちろんそれは、多数派であるキリスト教徒への配慮からなされたものであることに疑いはない。

その100年後のいまでさえ、「ユダヤ人であるイエス」という形容の仕方を快くおもわない人々もいる。しかし、少なくとも私が足を運んだレクチャーには、ユダヤ教徒のほかにカソリックほか主要キリスト教派、あるいは無宗教派だが神学に興味を持つ人々や、私のように歴史文化的観点から興味を持つ人々などさまざまな顔ぶれが見られ、講義の最後には活発な意見交換や質疑応答を展開していた。ひとつの宗教の中でもさまざまな派があるので一概にはいえないものの、100年前の話とくらべればユダヤ教とキリスト教の歩み寄りは少しずつでもすすんでいるような印象を受けた。

日本人の私としては、正直「あなたの宗教はなんですか」と聞かれても、「いやまぁ」と言葉を濁すしかない。それに「公共での宗教的な発言は控えるべき」という常識的観念も作用して、この質問に対しては多言をすることがない。神学的、宗教学的研究心や興味と、実際の信心は別の次元で語られるべきことである。とはいえ、海外ではしばしば明快な意思や信仰の表示を求められることもあり、戸惑いを正直隠せない。なかには会話の中で異教徒について露骨に悪く表現したりする人も見受けられ、第三者の私のほうがショックを受けることさえある。

ユダヤ教の観点から欧米文化を見渡してみると、欧米文化に触れてキリスト教について考えや理解を及ばせようとするときに生じる不自然な心の居座りの悪さを不思議に感じない。むしろ、ユダヤ教の視点からイエスを語るその論理に余裕すら感じる。それはおそらく、ユダヤ教がイエスを生んだ大本であり、キリスト教のもとであるイエスの神聖性などについての理屈を筋道立てて説得させられる必要がないから、スムーズに理解されるのである。ユダヤ教は世界のマイノリティではあるが、その点今日世界を大きく動かしえるキリスト教の威力をもってしても、元祖ゆえの精神的余裕と確固たる自信を揺るがすことはできないようにおもわれる。

なお、イスラム教もユダヤの系統をひく大きな宗教である。イスラム教ではキリスト教の根源であるメシアのイエスは磔刑にはかけられなかったと教えている。イエスは十字架にかけられなかったとするイスラム教と、十字架にかけられたがゆえに成り立つキリスト教。これらを生む土壌となったユダヤ教。聖地に波風が立たずしてなんとしよう。あるいは骨肉の争い、同胞だからこその軋轢というべきか。

第三者は黙して語らず、「異教」に対して意見する文化に生まれ育たなかったことを幸運とするしかない。日本のような中東の神々に地理的にも心理的にも縁遠い国に、砂漠から巻き上がる火の粉がかかるとしたら、それは政治経済的影響によるものである。

カテゴリー[ 時事 ], コメント[3], トラックバック[0]
登録日:2006年 05月 25日 02:12:33

コメント

キリスト教関係:
世界一斉封切で話題を呼んでいるダ・ヴィンチ・コード。抗議だっておきている。カンヌ映画祭でも上映されたが、皮肉なフランス人たちの反応は辛口だったそう。(それもそうだろうな)。話の中でオドレイ・トトゥー演じるソフィアの真の素性が割れたときは笑いさえおこったとか。あのお話はあくまでもフィクションだけれど、宗教的なものを扱っているだけに、まぁこんな話もあり? ではすまされないご様子。では「ラスト・サムライ」は、最後に忠臣蔵的にいえば「生き恥」を最後に女性への愛へとかえたラスト・サムライ、どれくらい日本サムライ哲学について談義されるべきか・・・(ちょっと違うか)

mika @ 2006年 05月 26日 22:13:39

大変楽しい記事と論説拝見。
長い長い宗派の軋轢と闘争と混乱の時代を経て今なお、本質的な解決には程遠い宗教界のありようを見て、これから数百年、数千年という気の遠くなるような歳月を経ても、恐らくはこの問題の根本的な解決をみることはなく、永遠の課題として人類が存続し消滅しない限り我々に突きつけられていくことでしょう。

物質世界の大半の事象が時間の経過や推移と共に、我々の力と意思の及ばざる空間への漂流を余儀なくされているにも拘わらず、宗教はしぶとく、ねちっこく、たくましく、人類の永遠の課題としてこれからも生き続けることでしょう。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、これら世界の精神界を采配する宗教が日常的に、対立と誹謗と憎みあいを続けている今の宗教界にあって、あなたの出席されたユダヤ教の講師の話は、非常に面白く、いつの世か、対立から融和実現への可能性さえ示唆し、あるいはそのような期待感さえ抱かせる内容のように見受けました。

もっとも、上記が実現できるとしても、長い長い道程を必要とすることは疑問の挟む余地はなく、われわれの生きている現代と言う座標ではとても無理というのがホンネのところでしょう。

何百年も何千年も、神の恩寵を受けることなく、信仰と信念の名のもとに、論争し、闘争し、殺戮し、破壊し、自我を押し通そうとする人間の営みや歴史のおろかさをイスラム教やキリスト教やユダヤ教はどのように見ているのか、宗教の問題は悠久で誠にタフな対象です。

Y.F. @ 2006年 05月 28日 20:12:47

Y.F.さん
最後の段落のコメントに多くが凝縮されているように思います。一体どれくらい時間がかかるのか・・・ われこそは、と思って各時代の人たちが動くゆえに争いが絶えず、かといってそれをやめたら信仰が薄らぐといったようなジレンマはこれからもずっと繰り返されるのでしょう。それでも、いつか良い芽が育ちゆきますように。

mika @ 2006年 05月 30日 05:52:42

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◆経歴:ふくしまみか
ライター・ジャーナリスト・エディター。東京生まれ千葉育ち。千葉県八千代市在住。玉川大学文学部外国語学科を卒業後、広告制作会社、新聞社勤務を経てフリーランスとなり、日本や海外で活動中。「ガンダーラ・ハウス」は気軽なエッセイ集です。近況などは上記「ブログ」のリンクからどうぞ。
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