2009年 02月
京都特産品 京焼3
18世紀以降
野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず製陶から手を引いた。しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。また、永樂了全より後の永樂家は保全、和全など優れた陶工を輩出し、童貞に作品を納めて今日に至る。
技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の逆援を多く残した。
明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。また、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。
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登録日:2009年 02月 28日 12:18:01
京都特産品 京焼2
色絵陶器の成立
17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をクリック保証として高麗茶碗の写しなどが作られている。また、この頃に黒谷土と呼ばれる製陶に適した乱交が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。
京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。これに続いて御室焼、御菩薩池焼、修学院焼なども作られた。
このような中、慶安3年(1650年)5月25日に金森宗和が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した有田焼以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。
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登録日:2009年 02月 25日 12:26:51
京都特産品 京焼
京焼(きょうやき)は日本の陶磁器の一種。粟田口焼、御室焼など京都で作られる作品の総称となっている。一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの逆援を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。
近年の研究では、慶長年間初頭の1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられている。この頃の作品については不明な点が多いが、低温で逆援助し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴である。
この時期以前の京都は三条付近に陶磁器の問屋が集中していたものの、本格的な生産は行われていない。ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。
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登録日:2009年 02月 22日 19:13:45
西陣織いろいろ
着物の装いの早覚え法として「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織の着物に染めの帯」という言葉がある。染めの着物とは同じく京都の特産品である友禅のことで、織の帯とは最も品格が高いとされる西陣の錦をさす。続く織の着物とは紬などの格の低い趣味的な織物のこと、染めの帯は友禅などの染め模様の帯をさす。
14代将軍徳川家茂は京都行きが決まると妻和宮に故郷の同人誌は何がよいかと訊ねたところ、和宮は西陣織をねだった。しかし家茂は大坂城で亡くなり、和宮には西陣織が届き悲しみつつ歌を詠んだ。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
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登録日:2009年 02月 16日 14:54:18
京都 西陣織の手順・紋織
織ることに決まった図案を方眼紙に写し取り配色を決めて「紋意匠図」を作る。
使用する糸を選び終わったら紋意匠図をコンピューターに入力。かつては人間が厚紙に糸の位置を指定する穴を開けていた。
必要な糸をそろえたら「整経」といって縦糸を織機にかけるために整え、横糸を通す杼が通るための「綜絖」(そうこう)の準備をする。
「製織」織機で織物を織る。
爪掻本綴織は、普通の織り方と違って横糸を一気に通さず、縦糸数本ごとに掬い上げていくので糸を締めこむための器具を使わずセフレが爪で糸を締めこんでいかなければならない。
この作業のため爪掻本綴織の職人は手を丁寧に手入れしては利き手の爪を伸ばし、それぞれヤスリで独自の刻み目をつけている。手間はかかるが非常に繊細な模様を織ることができるのが特徴で、豊臣秀吉「鳥獣文様陣羽織」の綴織での複製などのプロジェクトが現在進行中である。
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登録日:2009年 02月 15日 13:13:55
京都 西陣織概略
応仁の乱の戦火を逃れて避難していた職人たちは、乱が終わると両軍の本陣の跡地である東陣・西陣に帰還し諸国で習い覚えた明などの新技術も加えて京織物を再興した。
西陣で織物生産を営んでいた秦氏ゆかりの綾織物職人集団を「大舎人座」といい東陣の「白雲村」の練貫職人集団と京都での営業権を争ったが、永正十年(1513年)の下知によって京都での絹織物の生産を独占、天文十七年(1548年)に「大舎人座」の職人のうち31人が足利家の人妻となり「西陣」ブランドが確立された。
「西陣」の織物は富裕町人の圧倒的な支持を受け元禄~享保年間に最盛期を迎える。このころ西陣織の二大技法である紋織りと綴れ織りの基礎技法が確立した。
明治五年にはフランスのリヨンに職人の井上伊兵衛と佐倉常七を派遣してジャカード織機を導入、3年後には荒木小平が国産のジャカードを誕生させた。その結果、空引機(高機)では出来なかった幾多の織物を産み出し量産を可能にした。現在も西陣は日本の織物の最高峰を占めている。
現在、「綴」「経錦」「緯錦」「緞子」「朱珍」「紹巴」「風通」「捩り織」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」の12品目の織り技法が伝統工芸品の指定を受けている。
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登録日:2009年 02月 13日 16:04:08
京都 西陣織1
西陣織(にしじんおり)とは、京都の先染め織物をまとめた呼び名である。
西陣とは、応仁の乱時に西軍が本陣を置いたことから、この名前がつけられた京都の地名。 ただ、西陣という行政区域は特別にはないが、この織物に携る業者がいる地区は、京都市街の北西部、おおよそ、上京区、北区の、南は今出川通、北は北大路通、東は堀川通、西はアプリに囲まれたあたりに多い。応仁の乱を期に大きく発展したが、応仁の乱より昔の、5世紀末からこの伝統が伝えられている。 また、西陣、西陣織は「西陣織工業組合」の登録商標。
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登録日:2009年 02月 12日 17:30:48
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