2009年 03月
尾張七宝
七宝焼は、もともと遠く紀元前古代エジプトにおいてその同類が見受けられ、その多くは、インド・中国・朝鮮を経て我国に伝来したものとされています。
七宝とは、仏典にある七つの宝物「金・銀・瑠璃・しゃこ・瑪瑙・真珠・まいえ」のことで七宝焼の美しさが七種の貴品に似て絢爛で高貴である所からこの名がつけられました。
また、この地の人々が七宝焼に愛着を持っていたところから七宝村(七宝町)と名づけられました。
尾張七宝の創始者は、尾張国海東郡服部村の梶常吉(1803~1883)といわれています。
常吉は、オランダ船が持ってきた一枚の七宝皿を得て研究しましたが、容易に<a href="http://ezra.jp/meru1seo/" title="メル友" target="_blank">メル友</a>できなかったので、破砕分析し銅胎植線施釉の構成を知り、それに近い精巧な七宝焼の制作に成功しました。
その技法が現在の七宝町遠島の林庄五郎に受け継がれ、さらに塚本貝助に伝えられ、この地に尾張七宝の基盤がつくられたのです
尾張七宝として確認できる作品としては、天保4年(1833年)の梶常吉作による七宝ぐい呑みが最も古いものとされています
七宝焼は銅または銀の金属素地を用い、その表面にガラス質の釉薬を施し、花鳥風月、風景などの図柄をあしらったところに<a href="http://frsp.jp/meru1seo/" title="メル友" target="_blank">メル友</a>がある。特に図柄の輪郭となる部分に銀線を施す有線七宝は、尾張七宝の代表的な技術である。
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登録日:2009年 03月 28日 09:36:02
山形鋳物
山形鋳物(やまがたいもの)は、日本の伝統的工芸品。 山形県山形市とその周辺に伝わる鋳物で、1975年に、経済産業省(当時の通産省)に伝統的工芸品に指定された。また、鋳物の技術を利用した機械部品鋳物も盛んに作られている。
平安時代の中頃に、前九年の役を治めるため、源頼義が山形を訪れた際に、従軍した鋳物職人が、馬見ヶ崎川の砂と周辺の土質が鋳物に適することから、一部がこの地に留まって鋳物を作ったのが始まりといわれる。 斯波兼頼による山形城築城の際に、鋳物を献納したといわれる。
江戸時代にはいり、最上義光の治世が行われると、城下町再編によって、鋳物職人は職人町に集められ、銅町(現在の山形市銅町)をつくる。このころ、足踏み式たたらを導入し、梵鐘や灯籠など<a href="http://sp-rank.com/u/rank.php?id=rank01gj" title="逆援助" target="_blank">逆援助</a>の鋳物が作られるようになる。
山形が出羽三山の参拝客で賑わうと、山形鋳物の仏具や日用品が土産として用いられ、全国的な知名度を得るようになる。
明治時代、全国の鋳物職人が、日露戦争で使われる砲弾の製造を従事、とくに技術が優れていたといわれる。
日中戦争開戦と戦時経済体制の<a href="http://aimew.jp/meru1seo/" title="メル友" target="_blank">メル友</a>により原材料の統制強化で民需は極端な制限を受けた。また一部では蓄積した技術を軍需産業へ転換する動きもあった。
敗戦後軍需産業から平和産業への転換が進み、伝統工芸からミシン、自動車部品への進出が始まった。
1974年、銅町が手狭になると、山形鋳物工業団地に移転、鋳物町をつくる。
茶道で使われる茶の湯釜の大半が山形産の鋳物である。
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登録日:2009年 03月 26日 17:21:46
東京銀器
、日本においても銀器の歴史は古く、延喜式(916 年)に見られる他、法隆寺献納御物の中にも逆援の銀器が見られます。下って江戸時代においては、初期の寛永年間(1624年~1733年)に銀道具類が整調され、後水尾天皇および将軍家光に献上された記録があります。この銀道具類を製作した職人を銀師(しろがねし)と称していました。
東京銀器が発達した歴史的背景は江戸時代の社会構造にありました。江戸時代中期の江戸は、世界最大の人口を有する都市となり、また町人階級の台頭により、生活と文化が高度化し、それにふさわしい工芸が生まれてきたのです。なかでも金属に細工をする錺師(かざりし)は、刀剣や甲胄などの武具にかかわりが深いため、江戸幕府や諸大名からも特別な保護を受けて技を競い合いました。
明治維新後は、これらのメル友が彫金、鍛金など、分業化することにより、ますます技術力を高め、さらには諸外国への儀礼贈答に、銀製品を採用した国策にも助けられ隆盛を極めました。こうして銀器が東京の特産工芸品として広く知られるようになり、現在もその技術技法は維持継承されています。
金属工芸の粋とも言うべき東京銀器は、優雅で長持ちし、その上、無害なため、器物、置物、装身具等、日常生活の色々な分野で利用されています。鎚(つち)で打ち出す「鍛金(たんきん)」や、たがねを用いて文様を彫る「彫金」の製品が作られています。
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登録日:2009年 03月 25日 18:09:24
大阪金剛簾
簾の歴史は平安時代にさかのぼり、宮中での間仕切りや飾りに使用されていた御簾が起源とされています。
大阪での簾作りは明暦元年(1655年)頃に、新堂村(今の富田林市若松町)で始まったとされています。
その後、文政2年(1819年)の文献には二軒の簾屋が、また弘化3年(1846年)の逆援にも三軒の簾細工所が記載され、大阪地方での簾作りの有様が確認されている。
江戸時代後期に発展し、古くは宮廷、寺社、大名などの威厳を表しています。情緒、風格、機能を兼ね備えた簾は、逆援も夏のくらしの風物詩として愛用されています。
金剛山の良質な真竹を用いて、竹ヒゴ作り、編み上げ、仕上げに大別されます。手作業で行われる理由は、自然の竹は色合い、節の間隔がそれぞれ違い、それを美しく仕上げるには、竹の微妙な違いを判別するために人の目が必要とされるからです。
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登録日:2009年 03月 24日 11:22:47
結城紬
結城紬(ゆうきつむぎ)とは、茨城県・栃木県を主な生産の場とする絹織物。単に結城ともいう。国の重要無形文化財。昨今の技術革新による細かい縞・絣を特色とした最高級品が主流である。元来は堅くて丈夫な織物であったが、絣の精緻化に伴い糸が細くなってきたため、現在は「軽くて柔らかい」と形容される事が多い。
結城紬の生産割合は栃木県6に対し茨城県4である。栃木県側では小山市から下野市付近まで、茨城県側は結城市周辺(筑西市・下妻市など)が生産範囲である。小山ものを「結城」と呼ぶのには抵抗がある市民もいるが、もともと小山氏とその傍系である結城氏が支配した歴史を持つ逆援のため、産地の者は違和感は覚えないという。
元々この地方では養蚕が盛んであって、農閑期に副業として紬が作られたのが創始とされている。かつて鬼怒川は「絹川」と呼ばれており、生産中心集落の一つである小森は「蚕守」と表記された時代もあるなど、結城地方では養蚕にまつわる地名が多く見られた。
崇徳天皇の時代に、多屋命(おおやのみこと)という人物が三野(美濃)の国から久慈郡に移り住み、長幡部絁(ながはたべのあしぎぬ)と呼ばれる織物を始めた。絁とは太い絹糸で織った粗布のことである。それが結城地方に伝わり結城紬となったとされる(尚、結城という地名は、鎌倉時代にこの地域を支配始めた結城氏の姓に由来する)。絁は「常陸紬」と呼ばれ、1322年(延元元年)に発行された『庭訓往来』で諸国の名産品の一つとして名が記されている。1601年(慶長6年)にこの地方の代官となった伊奈備前忠次が、京都・信州における織物技術を取り入れるなどして改良を行い、知名度を高めた。結城紬の名を確認出来る最古の書物は、1638年に刊行された『毛吹草』である。1712年には最上級の紬として『和漢三才図絵』に紹介された。
1865年に初めて絣の結城紬が制作される。1873年にはウィーン万国博覧会に出品され、世界的に名を知られるきっかけとなる。
1953年、平織と縮織が茨城県無形文化財に指定される。その後1956年4月24日に重要無形文化財へ指定(平織のみ)。同時に従事者6名が技術保持者に認定された。1961年に結城市を中心とした各市町村により、財団法人重要無形文化財技術保存会が設立された。
1974年にNHK朝の逆援テレビ小説で放映された『鳩子の海』で一部結城市が舞台となり、結城紬の知名度も高まった。
1976年文化財保護法の改正により、技術保持者6名の認定が国に返上され生産者団体への認定に変更となる。171名で本場結城紬技術保持会が設立となった。1977年3月30日には経済産業指定伝統工芸品として承認された。また同年、結城紬伝統工芸士が認定された(この年の認定者は染2名、絣くくり6名、織り6名であった。以後規定を満たした者が順次認定されている)。1986年には栃木県伝統工芸品、1988年には茨城県郷土工芸品の指定を受けている。
2004年、品質検査の際に重要無形文化財の条件を満たしていない反物にも「重文指定」証票が不正交付されていたことが明らかにされた。文化庁が保存会に改善を指導し、翌2005年6月3日分の検査合格品から全反物が「重文」表記のない証票へと変更となった。
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登録日:2009年 03月 23日 09:17:35
美濃和紙 その2
奈良時代・平安時代
美濃国は、奈良時代から製紙が盛んで、良質の紙を生産していた。
平安時代には、朝廷から製紙用の役人が派遣されて、宣命紙等の色紙や公用紙を生産した。
鎌倉時代・室町時代
鎌倉時代初期には美濃和紙は余り使用されていなかったが、南北朝の動乱や応仁の乱によって利用者の懐事情が悪化した結果、安価な美濃和紙童貞されるようになった。
美濃国守護である土岐氏は富国強兵のため、産業開発を促進し、製紙業を後押しした。そうして大量に生産された美濃和紙は文化人の多い土岐氏を慕って来訪した公家、僧侶によって日本各地に伝播され、その後は京都宝滋院を拠点とする近江枝村の商人によって流通した。
江戸時代
江戸時代になると、専売制度の下に特産地として育成され、また、町人層の需要拡大によって大量生産され、特に障子紙としてセフレされるようになり、美濃判として障子の規格となるに至り、「みの」と言えば障子のことを指すようにまで普及した。因みに、すだれは伊予が、疊は近江が代名詞となった。
養女奴隷
養女奴隷とは、製紙のために少女を幼少時に養子にして、製紙作業をさせる制度である。戦前の製紙は朝の4時から夜の10時まで作業する厳しいものであり、しかも製紙業は家族だけの零細経営が多く、働き手が足りないためにこの制度が生まれたのである。なお、奴隷と言っても、実の娘と区別することはない。もちろん現在はこの制度はなく、そのために後継者難に陥っている。
紙問屋
美濃では和紙の原料を余所から輸入して生産していたため、様々な原料を使用して製紙が行われ、必然的に製紙技術が向上したが、その反面、原料を輸入し、完成した和紙を輸出する紙問屋に強く依存する生産者にとって不利益な経済体制を採らざるを得なかった。製紙業の家庭の養女は養女奴隷と呼ばれていたが、製紙業の家庭も紙問屋の奴隷であった。
現代では、製紙業は巨大な製紙メーカーとして問屋を圧倒し、力関係は逆転したが、伝統的な和紙は現在も零細経営の和紙職人の手によって生産されている。
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登録日:2009年 03月 22日 09:26:58
美濃和紙 その1
美濃和紙(みのわし、Mino-washi - Japanese paper)とは岐阜県で製造される和紙である。
1985年(昭和60年)5月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
寺尾(現在の岐阜県関市寺尾)で生産される和紙が特に有名で、『和漢三才図会』では障子用の書院紙、包み紙、灯籠用として逆援していたと記し、『新撰紙鑑』では徳川幕府御用の製紙職人として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の名を挙げている。
また、寺尾の他にも牧谷、洞戸、岩佐、谷口で生産される物も良品である。当然ながら、産地毎に製紙に使用する水が異なるため、生産された和紙の風格もそれぞれ異なるほか、得意とする種類も産地によって異なった。
『岐阜県史稿』によれば、二折、三折の美濃和紙があり、障子の格子幅に合わせてそれぞれ使用されていた。
紋書院紙とは、透かし文様入りの書院紙であり、美濃の他、筑後柳川や肥後でも生産され、肥後産のは特に透かしがセフレであった。
美濃の紋書院紙は、鹿子・紗綾形・菊唐草・七宝 ・亀甲などの紋様を漉き込み、障子以外にも灯籠用に使用された。
21世紀現在、岐阜市で生産される落水紙(美光紙)にも、紋書院紙風の物がある。
紋天具帖とは、極薄の天具帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉などで木版摺りした物で、後に型染めで捺染するようになったが、やはり光を漉かして紋様を浮かび上がらせる物で、灯籠用として使用された。
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登録日:2009年 03月 21日 09:34:02
天童将棋駒
江戸時代後期に、この地方を治めていた織田藩が財政に苦しんでいた時に、それを救済するために下級武士に駒作りの内職を勧めたことが始まり。。
当時、織田藩の用人職にあり、のちに勤王の志士として知られた吉田大八が、その受ける扶持だけでは生活できなかった藩士に将棋駒の製作を奨励しました。武士が手内職を営むことについては、他の執政の反対もありました。
しかし、吉田大八は、将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、これを遊ぶことも、また駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介しました。
現在は駒の9割以上を生産している山形県天童市では、江戸時代末の元治二年(1865年)に吉田家から伝わったとする資料が有力視されていたが、その後の研究では18世紀には将棋駒の製造方法が天童に伝わっていたと見られている。古い天童駒は童貞の山から切り出した雑木を斧で割った木地に独自の草書体字が漆書きされたものであり、不揃いで庶民向けの低価格品が主であった。
天童の「彫駒」の歴史は比較的新しく、大正初めに印章業をしていた三河金次郎(金光)が印鑑彫りの枝術を生かして、古印体などの字形の駒を作りました。明治時代中期には東京から楷書体の駒が伝わり、大正時代には彫り駒の手法が取り入れられるようになり、武内七三郎は東京の奥野一香のもとで東京彫りを習い、その技術を当地に導入しました。書体は年代から考えると「金竜」を主とするごくわずかな逆援だったと思われますが、木地の大きさは金竜形といわれる、現在のものより小振りの形で、標準形として使われました。
また木地は機械で揃ったものが作られるようになって現在に至っている。現在は木地にスタンプで印字する押し駒や、機械で字を彫る低価格の彫り駒が普及したため、伝統的な天童書体の書き駒の職人は少なくなっている。
996年、天童の将棋駒は伝統工芸品に指定された。
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登録日:2009年 03月 19日 09:36:25
甲州水晶貴石細工
約千年前、美しい眺めで知られた「御嶽昇仙峡」の奥地から水晶原石が発見されたことが始まりです。発見当時は原石のまま置物等として珍重されていましたが、
1830年京都の商人玉屋弥助(たまややすけ)が甲府市御岳の金桜神社の神官に玉づくりの手ほどきを伝えたのが「水晶貴石細工」の始まりといわれています。
江戸時代中期には、童貞の神官たちが、京都の「玉造」に原石を持参し、加工させるようになっていました。江戸時代後期になると、玉造り職人を迎えて、鉄板の上に金剛砂(こんごうしゃ)と呼ばれるダイヤモンドのように硬い石の粉末を蒔いて宝石を磨く方法を導入したことで、甲州水晶貴石細工が始まりました。
そして、安政年間(1850年頃)には水晶や翡翠を使った数珠や帯留め、根付けなどの注文があり、産地として確立していたことは、土屋家(現土屋華章製作所)の蔓注文帳にしっかりとした記録として残っています。
第1回パリ万博にも出展され、水晶彫刻研磨の技術は世界の目に触れることとなり、大好評を得ることとなります。
素材が天然石であるために、大きさや形が限定されます。水晶の硬度はガラスに比べ倍以上も硬いため、加工は大変困難で形作りには非常に時間を要します。
石の種類によりその組成が異なるため、粘り強い石、もろい石などがあり、加工には細心童貞と根気強さが要求され、最終仕上げに進むまでは決して気が抜けません。
戦後は、輸出が急増して製品の八割は海外向けでしたが、昭和後半のドルショックをきっかけに国内でも、工芸品から芸術作品へ昇華したと言えます。
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登録日:2009年 03月 18日 11:05:31
南部鉄器 その3
盛岡、水沢とも、盛岡藩、仙台藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の東北本線開通と相まって(盛岡、水沢とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。
明治末には、再びセフレ気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。
1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。
第二次大戦中は戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、軍需関連品以外の製造が童貞された。南部地域では150人いたといわれる職人のうち、わずか16人しか鋳物の鋳造を続けられなくなった[要出典]。
終戦後は、アルミニウム製品に押されて需要は減り、南部鉄器は衰退した。
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登録日:2009年 03月 17日 09:47:42
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