2010年 02月
マイセン300周年
今年でマイセンは300周年を迎えるため、昨年から「2010年開窯300周年記念限定コレクション」、「カウントダウン記念アイテム」が紹介されていたようだ。
マイセン300周年(Meissen Celebrates 300 Years Of Famous Porcelain)ではドイツ各地で記念イベントがある。スタートはマイセン磁器工房がはやく、特別展示「All Nations are Welcome(Alle Nationen sind willkommen あらゆる国を歓迎)」 は現在開催中で年内開かれているようだ。
マイセン磁器工房 では4月24日、10月23日にオープンドアと題して、工房の職人の作業を見学できるという。
マイセン・アルブレヒト城では5月から10月まで「純白の石- Der Stein der Weis(s)en」 が開かれる予定。
アルブレヒト城はマイセンと城の歴史にかかせない軟禁されていた錬金術師ベトガーの肖像画や彫像をはじめ、古いマイセンを鑑賞できる。
このAFPの画像は1900年製作の花瓶。ほかにはアウグスト3世からフランスのルイ15世(Louis XV)に贈られた四元素をかたどったマイセン磁器の花瓶や、ロシア帝国の女王カタリーナ2世が作らせた「女王(die Grosse)」という名の磁器1755年にデザインされ、1934年に製作されたインド・マラバル(Malabar)海岸の女性音楽家のマイセン人形、そして[url=http://ポンパドゥール夫人の愛犬のマイセン人形]ポンパドゥール夫人の愛犬のマイセン人形[/url]が特別展示されているらしい。
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登録日:2010年 02月 19日 09:37:01
故J・D・サリンジャー 未発表の原稿
「作品を出版しないでいれば、驚くほど平和な毎日だ。」そういって隠遁生活がはじまったのがサリンジャーは40前のことだったと思う。
記事「J・D・サリンジャーが死んでいた」
米イラストレーターのE. マイケル・ミッチェル(E. Michael Mitchell)氏はサリンジャーの書簡を文学コレクションの一部として寄贈したらしいが、この書簡に出版するためではなく、隠遁生活のなかでの執筆を続けていると述べていた。
未発表の作品、どこにあるんだろう。
「今は自分自身のため、自分の喜びのために書いているだけだ。」
生前にサリンジャー自身も口にしていた。
サリンジャー
さよなら J・D・サリンジャー
サリンジャー ライ麦畑編
サリンジャー ライ麦畑編に続く
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登録日:2010年 02月 17日 19:06:11
イスラエルのアーティスト レナ・レベンコ

生まれはロシアのほうで、イスラエルに送還された人らしい。
独特の絵柄はプリミティブだが中世時代とは一味違う。カントリー調なイラストからこうした東洋的な作品までファンタジー。
古紙や和紙、古本のページを背景にしたアクリル画で、今回の紹介作品はヘブライ語になるんだろうか???
作画は中国の「麒麟」のようにも見えるし、シノワズリな一枚なのかも。
詳しくはこちらから。
変身抄「レナ・レベンコ Lena Revenko」
KAFKA「レナ・レベンコのアクリル画」
Fin de siècle 「レナ・レベンコ」
Art de Vivre 「レナ・レベンコ Lena Revenko」
Noblesse Oblige 「レナ・レベンコ」
La fleur eternelle 「イスラエルのレナ・レベンコ」
Re+naissance 「レナ・レベンコ 不思議な登場人物たち」
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登録日:2010年 02月 15日 21:06:09
さよなら 謎に包まれた伝説の作家J・D・サリンジャー
画像 (C)jilliantamaki.com
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーが亡くなった。先月のことだ。昨年は50歳年下の女性との手紙がサザビーズで落札されたニュースがあったが。
1953年にニューハンプシャー州の田舎町コーニッシュで隠遁生活をはじめたとあったが、34歳の頃ではないか。
戦争の後遺症か、彼の神経衰弱が激しかったからだと思う。
日本で一番有名な「ライ麦畑をつかまえて」は僕が70年代の15歳だったころに読んだ。それからサリンジャーの作品は一種の子供の「すかしたインテリ」の小道具として大学に入学する前には翻訳されていたものは読んだ気がする。
当時15歳の僕は読みやすくってわかりにくいものを非常に愛好していたのだ。それから3年でサリンジャーを卒業した。
村上春樹氏はサリンジャー派なので翻訳にいそしんでいるが、もう一度読みたいかというとそうでもない。
気持ちが萎えるからだ。あの15歳の時代とは違うんだ。
でもサリンジャー自身は永遠の少年だったのではないか。単に大人社会にはなじめなかったという意味で。
そしてライ麦畑のホールディングは周知のとおり彼自身だ。イラッとして我慢できない。
そして物語はオチのようにホールディングが精神病患者だということが最後で理解できる。その彼の見解と批評を延々と読んでいたわけだ。
現実でのサリンジャーはコーニッシュの生活で高校生と親しくなる。(30歳を過ぎた男の親しい友人関係だろうか?)
ところがいつか孤立をはじめるのだ。
二度の結婚のあと、彼は91歳までどんな暮らしをしてきたのか。作家としての名声を手にしながらその地位や仕事を持続したりすることが苦手だったと僕は思う。
そして出版はされなくとも書いていたという、自分だけのために。
世界でひろく彼の本は翻訳されているから生活には問題はなかっただろうが。そういう点ではうらやましい。
ところで彼の訃報は僕の70年代をよみがえらせた。懐かしいサリンジャー、さようなら。
ライ麦畑の名文句
記事「さよなら J・D・サリンジャー 」
記事「サリンジャー ライ麦畑編 」
記事「サリンジャー ライ麦畑編に続く」
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登録日:2010年 02月 13日 13:55:13
早すぎる死
残念というほかにない。特に自分より若い人が亡くなるのは。
「早すぎる死 アレキサンダー・マックィーン」
この記事では追悼の言葉の重みを述べている。
「早すぎた死 マックィーン」
この記事では生前の生命力溢れた作品と死を対比させている。
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登録日:2010年 02月 12日 19:56:37
エルネスト・ボー
ブルジョワ、シャネルの調香師として有名なエルネスト・ボー。
香水に関しては
「ジャポネズリーな香水」 KOBAKO から
僕がこの人に興味を持ったのは、芸術家であり化学者でなければならないという彼の理論。
いつも思うことだが、経済に長けている人は案外芸術や文学に疎い。芸術に長けている人は経済に疎い。
知識はあっても疎いということだ。
このボーはフランス人化学者の息子として誕生した。フランス文化が定着していたモスクワに。
成人した彼はラレー社というところに勤務した。
ロシアのラレー社は単に化粧品会社ではなかったようだ。研究員となったボーはラレー社初の香水「ブーケ・ド・ナポレオン」を発表した。
ボロジノの戦いの100周年記念の香水に次いで「ブーケ・デ・キャサリン」はロマノフ朝の300年記念をつくった。
それから彼はシャネルの No.5 を誕生させた。
彼の言葉に
「胡椒と塩というものは、そのものだけの味を楽しむことはできない。だが皿のなかの料理の味付けを最高に高めるものだ。」
つまり彼自身も「胡椒と塩」で、彼の調香師としての技術も「胡椒と塩」で仕上げているのだろう。
もうひとつ
「調香は作曲である。それぞれのコンポーネントを明確な諧調でとらえ、私はワルツや葬送行進曲をつくる。」
彼は手記の中で、「香水は芸術品だ」と述べている。
「調香師はそれを創りだす芸術家である。香料を嗅ぎわけること、配合の割合を研究することは音楽家が諧調を聞き分けること、画家が色調を訓練するのと同じことだ。」
この人は調香師であり科学者(化学者)であり、芸術家でもあったようだ。
彼のつくったシャネルの5番はシャネルがカンボン通りを横切り仕事場に向かう姿を見ると、アシスタントたちは彼女がサロンを通る全てに吹きつけ迎えたという。
もうひとつの名言はこちら エルネスト・ボー Ernest Beaux
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登録日:2010年 02月 11日 19:03:24
3年ぶりのログイン
あぁ、ようやくログインできた。
ログイン方法が変わってたんだ・・・。
3年ほど留守していたが、アクセス数が多くてびっくり。
これから真面目に記事書きます。今日はこれにて。
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登録日:2010年 02月 10日 00:51:12
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