バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り
ここは、画家 フレデリック・バジールのアトリエである。
画壇ではモネ、マネ、ドガ、ベルト・モリゾ、ルノワール、ホイッスラー、アンリ・ファンタン=ラトゥールなどが、バジールと深い絆を結んでいく。
1枚目は、マネが住まうバティニョール街へ、バジールもアトリエを持つ。そこがラ・コンダミヌ通りだ。
大きな窓の下で、作品を長身の男性が、二人の人物に披露している。自作を手にしているバジールだ。帽子にステッキの男性はマネ。もう一人がモネ(批評家ザカリー・アストリュックとも)であるらしい。
右のピアノを弾く人物は、バジールの友人エドモンド・メートルで、ルノワールも彼の肖像画を描いている。
そのルノワールは、エミール・ゾラが、階段の手すりごしから話をしている階段下にいる。バジールの同居人でもある、ルノワール。
ピアノを弾くエドモンド・メートルの上には、果実の静物画が掛けられている。ソファーの後ろの絵は、バジールの「身づくろい」によく似ている。メイドの黒人女性が左側で、裸の女性の身づくろいをはじめるのだが、女性がそのメイドに手をまわしている部分がよく似ている。本来は、右側にも女性が、衣服を持って立っているのだが。左上の壁には、「BADENDE(海外ではこのタイトルが馴染み深いらしいが、投げ網の漁師のこと)」
では、バジールは、どの自作を披露しているのか。
どうやら 「村の眺め La vue de village, 1868」らしい。
この作品は、「フレデリック・バジール トワレ(身繕い)」の記事から、鑑賞できる。
では、2枚目のアトリエ、3枚目のアトリエと続ける。
右は、「ヴィスコンティ通りのアトリエ」である。左が「フュルスタンベール通りのアトリエ」である。1862年に、パリのシャルル・グレールのアトリエで、モネ、ルノワール、シスレーなどと知り合う。1865年、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に面したフュルスタンベール通り6番地にアトリエを借り、数ヶ月はモネと共同生活。(バジールは、モネの「草上の昼食」をはじめとする作品に、モデルとして登場している。) 作品のヴィスコンティ街に住んだ頃、またモネと暮らし始める。そしてルノワールも共に。1867年のこと。ラ・コンダミヌ通りに移る、1年前のことだった。
1857年、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の壁画を描く画家がいた。ドラクロワである。この年、フュルスタンベール通りに、住居とアトリエを兼ねて、それから1863年に没するまでの5年間を暮らしていた。この左側のバジールのアトリエは、ドラクロワ風のアトリエで、彼への信奉だろう。
現在、国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館となっている。
この「フュルスタンベール通りのアトリエ」には、手前に、モネの睡蓮と思われる作品が掛かっている。
バジールは、29歳で、11月18日に、ロワレで戦死をしている。
写実派や印象派の芸術集団との交流から、彼が、ノブリス・オブリージュ(高い生得的地位による高貴な精神)の人格であることを知る。実際には、プロテスタントの中流階級であるが、暮らしが裕福であったため、まだ著名ではなかったモネやルノワールたちの、パトロン的存在でもあった。ルノワールとバジールが、互いに描きあった肖像画がある。
1870年から71年、ルノワールは普仏戦争に徴兵された。バジールは徴兵を断ることもできた身分であった。だが、ルノワールの場合はそうではなかった。バジールは、ルノワールとともに普仏戦争へいき、ルノワールだけが帰ってきたのだった。
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登録日:2006年 12月 28日 03:19:52
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フレデリック・バジールが描いた、友人のエドモンド・メートルだ。バジーレの「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」では、隅のピアノを弾いていたり、アンリ・ファンタン・ラトゥールの「バティニョールのアトリエ」では、バジーレの隣に描かれて、「ピアノを囲んで」では、エマニュエル・シャブリエと向き合って座っているという。とにかく印象派の画家の描く作品に、多数登場している。 この「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」、そして「バティニョールのアトリエ」に、エドモンド・メートル同様にバジーレと親しかった画家がいる。それが、ピエール=オーギュスト・ルノワール だ。 Die Verwandlung 2006/ 12/ 28 投稿記事 「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」 ちなみに、この作品上ではわからないバジーレの自作で「村の眺め」といわれている記事についてはこちら。 Life Carrer Counseling 2006/ 12/ 28 投稿記事「フレデリック・バジール トワレ(身繕い)」「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」で、階段下にいる、このルノワールも、エドモンド・メートルを描いているのだ。 肖像画 エドモンド・メートル 1871年 すっごく洒落て描いているよ。僕、ルノワール大嫌いなんだけど、この作品だけは大好きだね。邦題は「肖像画 エドモンド・メートル」でいいとおもうんだけど。aka The Readerは、ご存知のリーダーってなるのかな? ピエール=オーギュスト・ルノワール関連記事 ジュリー・マネ ラ・グルヌイエール マドモアゼル ジュリー・マネ カリアティデス(女像柱) ルノワール と フレデリック・バジール ニンフ・ バイ・ ザ・ ストリーム(小川の妖精) 19世紀の写真と絵画 ルノワール
date:2007年 03月 11日 01:18:07
The Painter's Studio 大きい画像はこちら クールベの作品は、あまり興味がないが、この作品はパリ万博での出展を断られた。左半分に、政治家から下層階級が、彼の絵に対して、ソッポを向いているという解釈を知り、出展を断られたのも、当時の政治家の顔がわか
date:2006年 12月 29日 14:20:32
ここにランボーがいる。アンリ・ファンタン=ラトゥールが描いた、テーブルの一角に。 呪われた詩人 ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーは、隣に座る詩人ヴェルレーヌに才能を見出されたが、1872年に、ヴェルレーヌは拳銃をランボーに向ける。未遂ですんだものの、美少年に狂ったヴェルレーヌ。 この作品は、左からポール・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine) (1844-96) とアルチュール・ランボオ(Jean Arthur Rimbaud)が描かれ、L・ヴァラード( L. Valade)、E・デルヴィリィ(E. d’Hervilly)、C・ペルタン( C. Pelletan) に、後列には、P・エルゼアル・ボニエ(P , E. Bonnier)、E・ブレモン(E. Blémont)、J・エカール(J. Aicart)が並ぶ。 「テーブルの一角 Coin de table'」1872年Musée d'Orsay, Paris, France アンリ・ファンタン=ラトゥールに興味が沸いたのは、なにも、「オルセー美術館」展なんかじゃない。ファンタン・ラトゥールの集団肖像画は、マネとファンタン=ラトゥールをめぐる交友関係が多い。「Coin de table テーブルの一角」は、マネが描かれていない。パリの文壇の面々とこの二人。しかも、発砲事件があった1872年の作品。 二人の目線は、どこを見ているのだろうか。愛したものとの別れをクローズアップしているのか。それとも確執か? アンリ・ファンタン=ラトゥールが描いたバティニョールのカフェ「ゲルボワ」に集まる芸術家たちを、1870年には、マネを中心に描いている。「バティニョールのアトリエ」という作品だ。 筆を握るマネ。マネの筆の行方をみる、一番右端にいるクロード・モネ。左には、知恵と工芸を司る女神ミネルヴァの像がある。ここにいる詩人や芸術家集団を、フランスの叡智の象徴として、賛美をしているか。 そして、もっとも僕が注目したのは、椅子に座る批評家のアストリュックがいることだ。 Un atelier aux Batignolles 1870 バティニョールのアトリエMusée d'Orsay, Paris, France 1863年に描かれたマネの「草上の昼食」は、当時の社会的な物議をよんだ作品。この頃は、「ヌード」は非常識であったからだ。その「草上の朝食」がサロンに出品されたときに、アストリュックは、「私は彼がこのサロンで入選するとは思われない。−(略)− しかし、彼の作品は、サロンでもっとも輝き、インスピレーションを与え、力強さをかもしだし、驚きを与える。」と評した。その批評家がいる。 さらにドイツの画家 ショルダーや、バジール、そのバジールがよく描いた友人のエドモンド・メートルなども、ゾラやルノワール とともにいる。(画像にカーソルを合わせると、順に紹介しています。) さて、はたしてマネを讃え慕う芸術家を描いたのだろうか。パリの文壇の面々が描かれた集団肖像画「テーブルの一角 Coin de table'」にあるように、ここにも別れを描いているのではないか。 1870年、普仏戦争に出兵したフレデリック・バジール(1841-1870)の戦死。 バジールも、アトリエの集団肖像画を描いている。「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」だ。そのほかに「フュルスタンベール通りのアトリエ」、「ヴィスコンティ通りのアトリエ」という作品を紹介している記事がある。→Die Verwandlung また、「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」で、作品の中で、バジーレが自作を披露している作品と、アトリエ内に掛かっているバジーレの作品を、画像とリンクで紹介している記事がある。→Life Carrer Counseling この作品が、バジールの戦死のあとか先かで、僕の推理が狂っていく。だが、その戦争に徴兵されたルノワールのうつむいたような描き方に、その死を嘆いているようでもある。それとも、僕の知らない二分する別れや確執が、まだ隠されているのか。あるいは賞賛のみなのか。 さて、この製作当時は確執のなかったゾラとルノワールである。1894年のドレフュス事件では、ルノワールはゾラを支持しなかった。ドレフュスの事件については、ココでは述べないが、aleiくんの「ゾラのセレクト」という記事の後半に、この件の概要を述べている。そちらを参考に。つまり、ゾラを支持するドレフュス派ではなく、ドガやロダンの反ドレフュス派を支持していたというわけだ。 「ドラクロワへのオマージュ(ドラクロワ礼讃)」(1864年)Musée d'Orsay, Paris, France この年は、モネ、ルノワール、バジールはまだいない。 偉大な芸術家 ドラクロワ(1798 - 1863)の肖像を囲むのは、白のシャツは彼自身と、ドラクロワに似たホイッスラー、肖像画、そしてドラクロワ賛美の美術評論の著者でもあるボードレールが正面の椅子、そしてマネだろうか。一番左にエミール・ゾラ似がいる。その手前に座っているような人物は、ザカリー・アストリュック似。あとは、よくわからないが、ホイッスラーとアルフォンス ルグロ とともに、1858年に「三人会 Société des Trois」を結成しているから、アルフォンス・ルグロもいるかもしれない。1862年には、このメンバーとマネ達で「腐蝕銅版画家協会 Societe des Aquafortistes」を結合しているから、版画家のフェリクス・ブラックモン(1833-1914)、刷り師のオーギュスト・ドゥラートル(ドラートル)なども想像できる。 そう、ここに「腐蝕銅版画家協会」が、なんらかの形で描き込まれていなければ、僕の人間模様の推理は崩れる。 なんといっても、「腐蝕銅版画家協会」のブラックモン。ボードレールは、「悪の華」の挿絵で、ブラックモンを推挙されたが、フェリシヤン・ロップスに依頼し、それ以来、縒りをもどすことがない。1862年のころである。こじつけかな。 いやいや、ルグロもブラックモンもいる。どこにいるのかがわからない。(苦笑) そして、写実主義文学のデュランティ(右奥のどちらか Duranty, Louis-Edmond)、シャンフルーリ(微妙にわからない Champfleury, Jules)がいる。(彼らはボードレールとともに、批判が激しい画家 ギュスターヴ・クールベの擁護であったが、この1864年頃に、クールベと決定的な疎遠になっている。) アンリ・ファンタン・ラトゥールが描く、集団肖像画には、ひそやかな人間関係が眠っているような気がする。これは、まったくの僕の鑑賞であり、専門家や専門書からではないので、推理が中りか外れかのいずれである。
date:2006年 12月 28日 20:07:27
フレデリック・バジール「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」 のディティール(部分)です。 夭折の画家、バジーレの作品数は少ないものの、その才能が際立つものが、いくつかありますが、集団肖像画とされる「バジールのアトリエ、ラ・コンダミヌ通り」 は、当時の....
date:2006年 12月 28日 20:03:43