年次の人権弁論大会「カン・メモリアル」が開催―フランス

年次の人権弁論大会「カン・メモリアル」が開催 - フランス

【カン/フランス 30日 AFP】年次の人権弁論大会「カン・メモリアル」(Caen Memorial)が29日、フランスのカン(Caen)で開催された。様々な国の法律家10人が、目にあまる人権侵害を告発し、委員会が事件を徹底追及する。写真は、カン・メモリアルで演説するカメルーンの法律家フランシス・ドジョンコ(Francis Djonko)氏。(c)AFP/MYCHELE DANIAU

AFPBB News


(広がる人権意識)
 世界で様々な人権問題が問題になっている。最近ではイラク戦争の捕虜に対する問題や身近なところでは北朝鮮拉致問題などが記憶に新しいであろう。また、このような事件性のものではなく、これまで社会構造の問題としてなかなか世界全体で取り上げられて来なかった開発途上国における子どもの労働問題、女性への性差別、人身売買などの実態に対する人権問題もグローバルスタンダードの観点から注目されつつある。
 
 
 

(人権という言葉)
 ただし気を付けなければならないのは、人権という言葉の意味するところを個人個人がしっかり認識しなければ、逆にとんちんかんな問題を引き起こすということだ。特に日本人は人権という言葉をいい加減に使っている傾向がある。
 日本語の人権は英語のHuman Rightの直訳と言っていい。欧米におけるHuman Rightの考え方には、キリスト教の神との関係が明確に意識されているが、日本の場合単に人間の権利というだけである。これでは一体人の何に対する権利かがはなはだ不明確である。したがって、よく言われるのは人権とは「人が生まれながらにして持っている権利」と非常に曖昧な表現で片付けている。
 

(日本人の人権概念)
 これではどのようにでも解釈できるので、日本では当然の人権問題の概念を超えて逆に人権問題の乱用が起こっているように感じる。世界の人権問題と比較すると低次元な人権問題が社会を混乱させていることが多々見受けられるということだ。実際の例として、ある日本の高校で、生徒への制服の指定が子どもの権利を侵害しているという問題が起こった。
 もともと制服は、日本がまだ貧しかったころ、衣服による貧富の差が判らないようにする配慮が隠されており、また、子どもがそんなに高価な服を買える時代ではなかったので冠婚葬祭すべてに通用する経済的な服として庶民を支えてきたものでもあった。さらには、制服によって生徒たちはどこの者か社会的に識別されるので、ある意味非行防止にも役立っていたと思われる。どこが人権問題なのであろうか。
 開発途上国では、満足な服さえ持たない子どもが圧倒的に多い。制服を着られるということは本当に恵まれた話なのだ。今、日本は経済的に豊かになった。これはまさに飽食が起こした場違いの人権問題のように思われる。この種のものが日本には結構ある。


(本来の人権問題)
 世界で問題になっている人権問題は、もっと生存権に密着した「生きる意味」ということへの問いかけなのである。1人の人間として自分の意思で人生・職業を選択できる自由、社会生活を送る上で必要な教育を受けることができる自由、個人の言論・思想が他人に脅威を与えない範疇で保障される自由など、人間が生きていく上で最低限保障して欲しい様々な権利が侵害されている問題との対峙である。


(今日のグローバルスタンダードと人権)
 他方ここで考えなければならないのは、民族文化をどのように捉えるかである。現在のグローバルスタンダードは、欧米文化を基本としたものであり、真のグローバルスタンダードとは言えない。文化は、もともとそこに住む人々が生き延びていく上で必要な知恵の結晶である。日本では「郷に入りては郷に従え」という言葉があるように、文化アイデンティティはその地での暮らしが円滑に行われるように長い年月をかけて人々が育んできた生活様式の現われである。
 20世紀の急速な科学文明の発達は政治、経済、情報、文化の交流を加速させ、今日のグローバル社会を生み出し、人々の社会・生活環境にこれまでにない影響をもたらしている。今後の人権問題の扱いは、自然権としての人間の尊厳を忘れず、文化アイデンティティを含めた真のグローバルスタンダードの確立を追及しながら幅広い視野の中で考えていくべきであろう。
 特に、戦後アメリカンスタンダードに盲従してきた日本人はもっとこのことに注視すべきではないだろうか。

コメント[2], トラックバック[0]
登録日:2006年 02月 03日 02:08:13

コメント

人権の問題って、本当に難しいですね。
私も海外で生活していた時に、人種差別のようなものを感じたことがありました。
ほんの些細なことでしたが、やはり西洋人の根底には「アジア人は自分たちより下の人種」という感覚が多かれ少なかれあるのだと感じた瞬間でした。
もっとも全ての西洋人がそうだ、というわけではなく、私自身も、あまり気にはとめませんでしたが・・・。
もちろん、「○○人はちょっと苦手」などということはあるかもしれません。
しかし、それをあえて社会生活の場面で表に出す必要があるのでしょうか。
差別主義者から言わせると、それも「表現の自由」なのでしょうか。
今、まさに「表現の自由」が問題となってる事象が起こっていますよね。
ムハマンドの風刺漫画と欧州の対応・・・。
人権と自由についての話題はいつの時代にも議論をかもし、それでも答えの出ない、難しいテーマであると思います。

藤原ヒカル @ 2006年 02月 14日 03:34:58

人権問題の敵は貧しさ
映画「ミシシッピーバーニング」が物語っていました。
さて日本では・・・・?
被害者は子供、青少年たち。 もちろん制服問題は論外ですね。
年甲斐のない大人の性欲、経済至上主義は子供の健やかさを脅かす。経済的、物質的な豊かさのカーテンは焦点を見えにくくし、経済的に貧しい国の子供たちだけが被害にあうという錯覚を起こす。共通する点は、とりまく人間の心は貧しく、子供たちは皆弱者で、子供たちの視点はローアングルで自分たちの上に覆う問題は見えない。
子供たち(青少年)の健やかさは無条件で大事です。
人権問題をとりまく環境に気づかず疑問を持てない人は被害者であり、加害者になりうる。映画「ミシシッピーバーニング」は、そんな悪循環を断ち切ろうとした人たち、胸に秘めた良心をほっとかなかった人たちが苦闘しているいい映画です。

kuma @ 2006年 03月 08日 18:44:26

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プロフィール
蒼樹 龍
(男)
■現在の職業:国際関係団体職員
■経歴:途上国での国際協力ボランティアに参加。現在、グローバル社会の問題に取り組んでいる。
■得意ジャンル:異文化理解・コミュニケーション、青少年問題、教育、社会文化
■ひとこと:人類は何処に行くのか。社会の大いなるターニングポイントに挑戦。
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