2006年 07月

微笑み

今夏、我が家に迎える、
「微笑みの国タイ」からの、お客人のことを考えていて、
妙なことに思いが至りました。

「微笑み」と、
「冷笑」と、
「薄ら笑い」

この三つ、どう違うのだろう、などという疑問です。

面と向かって浮かんだ笑みが、
区別付かないはずもなし。
されど、眼に見る外見だけじゃ、
何の違いもないかも知れぬ。
写真で瞬間切り取れば、
果たしていかなる笑みなのか、
とんと想像付かぬがオチよ。

でも、分かりますよね。
分かる、というよりは「感じる」んでしょうか。
全体から受ける波動が何なのか、
それで区別が付くのでしょう。

もう学生の頃ですから、ずい分と以前のことですが、
チャップリンの「街の灯」のラストに、シビレたことがあります。

チャップリンの満面の笑みがアップになって終わるんですが、
その笑顔に感動したんです。
「どうやったら、こんな笑顔を出せるんだろうか!」、とです。

それからしばらくの間、鏡の前で格闘していたことを思い出します。
いかなる技術や工夫があるのか、懸命に模索していました。
(ヒマでしたねえ・・・)
結局、出た結論は、「技術でも造作でもない」ということです。
すなわち、「心の奥底からの愛の思い」が噴出しなければ、
あの大輪のバラのような笑顔は出てこない、という結論でした。

ありったけの愛念とやさしさとを、
心の底から搾り出すと、
あのラストに似た大輪のような笑顔が、
鏡の中にありました。

やはり、心が全てです。
いかなる技術があろうとも、
いかなる造作があろうとも、
心の中から何がほとばしり出てくるか、
人は敏感にそれを察知するのでしょう。

愛こそ全てです。
心の底から湧き出でる愛念と、
そして大輪のバラのような笑顔とが、
この地上を埋め尽くさんことを願います。
心の底より。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 31日 22:17:59

「読解力低下は日本の危機」

小学生の読解力が、かなり低下しているそうである。

基礎学力全体が低迷する中、
その根幹である国語力の低下は、
将来の国民全体の知的能力、
知的生産力の危機を意味する。

資源小国日本の、唯一の資源、「高い教育水準」が崩壊しつつあるのだ。

とはいえ、その再生には、公立学校に、現状そう多くは望めない。  
それゆえ、保護者のあり方が問われるのである。
保護者が、勉学や読書の習慣を、
その後ろ姿で子供達に示すべき時期が来たのだ。

保護者とは、子供の理想の存在である。
子供にとって尊敬に値する人格、信条、行
動、生活習慣を、誇りを持って示すべきだ。
自らが実践せずに、どうして子供達だけに、それを要求しえようか。

このままでは、日本の将来は不安である。
さらなる繁栄の持続のためには、
知的能力の再生は不可欠である。
そのための努力は、決して惜しむべきではない。

保護者の自己変革をも含め、
抜本的な方策を模索するべきであろう。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 30日 21:47:05

窮鳥のように

窮鳥のように、「他人の懐に飛び込む」のは、ずい分と便利です。

こちらが妙にかしこまって、
礼を失しないようにと、
距離を保っている限り、
絶対に相手は胸襟を開きません。

それが無遠慮にも図々しく、相手の懐に飛び込めば、
どんなに礼を失しようが、
いかに節度を失おうが、
もう大丈夫になっちゃいます。
これが、実に不思議なところです。

子供の姿で考えると分かりやすいです。
行儀良く、おどおどと、親しみを見せない子供と、
ニコニコしながら絡んでくる子供と、
あなたなら、果たして、どちらを好まれるでしょうか?

私ならハッキリしています。
図々しくってにぎやかで、楽しく絡んでくる方の子です!

ですから、この逆をやれば、対人関係は絶対的に好転します。
実は、この図々しさを、私はボーイスカウトのライバルから学びました。

すき放題やりぬいて、しかも年長者から可愛がられる。
「なんと便利な方法論よ!」と感動したものです。
そこで、すぐに学んで実行してみました。
すると、今までの堅い対人関係が嘘のようにふにゃふにゃになっていきます。

だもんで、どうせ同じく努力するなら、
楽しくおおらかに図々しく生きた方がいいかもしれませんね。

自分で壁を作って、他人を敬遠している限り、
心は絶対に孤立したままでしょうから。
そんな壁、打ち壊せばいいんです。

「三界は唯心の所現」という、仏教の言葉があります。
自分の心さえ、くらっと一変させれば、
世界は確実に光り輝いて見えるはずです!

人生は修行そのものですが、
額にシワを寄せた苦行であるより、
どうせなら、幸福な人生修行を。
それが、とびっきり楽しくあれば、
もう言うまでもありませんよね!

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 28日 23:33:57

アウトドアブームに思う

アウトドアブームも、すっかり市民権を得た。
用品も簡単に手に入れるようになり、
便利この上ない。

しかし、
古いボーイスカウトである私にはこだわりがあるのだろうか。
アウトドアで出くわす方々の姿を見て、
そのマナーに疑問符が付く場合も多々ある。

無論、少々のことでは目くじらも立てないが、
河川敷での増水の危険を顧慮しない等、
アウトドアの安全教育の緊急性は、常々感じてしまうのだ。

だが、さらに切々と思うのは、
「もっと、自然の息吹を感じてもらいたい」ということだ。

飲んで騒ぐだけならば、いつもの街中でしても何ら変わりはない。
せっかく大自然の中に繰り出したのだ。

大地の息吹、
夕日の荘厳さ、
星のきらめき、
こずえを渡る風の音、
森のかぐわしさ等々、

自然そのものを感じることをお勧めしたいのである。

これから夏本番を向かえ、
お子さんを連れて行くならばなおさらだ。

世のご両親方には、どうか、特にお願いしたい。
せっかくアウトドアにくりだすのだ。
都会の延長と宴会ではなく、
子供たちには、大自然の神秘を与えてもらいたいと。

コメント[0], トラックバック[1]
登録日:2006年 07月 27日 22:21:15

「高砂義勇軍に尊敬と感謝を」

「高砂義勇軍」をご存知だろうか。
先の大戦中に、台湾の先住民である「高砂族」によって編成された、
精強無比の日本陸軍の部隊である。

その「高砂義勇軍」の関係者、
すなわち生き残りの勇士たちとその遺族たちが、
先年、靖国神社に参拝した。
今は海をへだて、国籍を異にするとはいえ、
かつては同胞であった方々である。
しかも彼らは、「祖国日本」の危急に応じ、
多くの戦没者を出すにいたったのである。

先の戦争を、自衛戦争ととらえるか、
はたまた侵略戦争と規定するかは、
後世、歴史が定めるであろうが、
台湾、日本と出身地を問わず、
戦火に斃れた彼らが、好んで戦争をおこしたわけではない。

彼ら良民たちは、平穏な生活を捨て、
敢然国難に赴いたのである。

現代の日本に、それに報いる気持ちがなく、
過去の恥ずべき歴史としてしか捉えていないのは、
まことに残念でならない。

戦争で被害にあった方がたのことも忘れてはならないが、
日本のために生命をかけてくださった方々に対しても、
尊敬と感謝の思いを忘れてはならない。

「高砂義勇軍」には、
それを受けるだけの十分すぎる理由があると確信している。
彼ら勇士たちには、地上の生命はそう長くは残されていないだろう。

それであるならば、少しでも早い行動が望まれる。
身をとして祖国の危急に赴いた勇士たちに、
心からの尊敬と感謝を。
これは、人として、国として、当然の態度であると、
声を大にして主張したい。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 25日 22:23:35

障害児を授かるということ

国が自粛勧告しているにもかかわらず、
ダウン症などの先天異常の確率を推計する
「母体血清マーカー検査」は、
年間、一万5千件以上実施されている模様だ。

この不完全な検査によって、
胎児に障害の可能性が指摘されるだけで、
中絶されてしまうことも多いようである。
これは本当に大問題ではなかろうか。

さらに踏み込んで考えると、
障害を持って生まれることは、許されないことなのだろうか。
親に足手まといの子供は、生まれる権利がないのであろうか。

8年前に亡くなった私の兄は、ダウン症であった。
兄の人生は、生まれてくる価値のない、
無意味な人生だなどとは、決して思えない。
兄がいてくれたおかげで、
家族は多くのことを学ぶことができたからだ。

私個人にしても、兄の存在がなければ、
どれほど傲慢な人間になっていたかわからない。
弱者に対するやさしさなど、かけらも存在しないような、
嫌な人間になっていた可能性は充分に考えられる。

しかし、家族に障害者がいるということは大変なことだ。
私は、兄弟という比較的楽な立場でそれを体験したのだが、
それが親の立場であったならば、
我が子が障害を神仏より授かったならばと思うと、
その重圧は想像を絶する。

我が子の障害の可能性が検査で指摘されたとしたら、
その苦難をうやうやしく
神仏から受け入れる勇気があるかどうか、
私は完全には自信を持てない。

されど神仏は、
「その逆境にあって、あなたは一体どうするのか」と、
問い掛けていることを忘れてはならない。
「その逆境を見事に乗り切り、
心にすばらしい宝物を作り上げなさい」と、
期待していることを、同時に忘れてはならないのだ。

「人生は一冊の問題集である」と、かつて読んだことがある。
個々人に与えられた、逆境とも思える環境は、
その人が心を鍛え、慈悲心を養い、智恵を深めるために、
神仏より与えられたものだ、という考えだ。

その考えの上に立つとき、
障害と共に生まれてくる子供は、
神仏からの授かりものでしかない。

「苦しいかもしれないが、この環境で頑張りなさい。
これが、あなた方が今世なすべき課題ですよ」という
神仏の言葉が伝わってくるのだ。

かつて、作家の景山民雄さんの、
亡くなられたご長女の話しを読んだことがある。
彼女は障害と共に生まれ、
一度も病院から外に出ずに19歳で亡くなられた。

真偽のほどはわからないが、
亡くなられた彼女が景山さんに対して、
自分が不自由な身体で生まれてきたわけを
教えてくれたと言う。

それは、「私がこうした人生を選ばなかったら、
パパが弱者に対する優しさを持てない可能性があったから」だ
というものであったそうだ。

その文章の題は
「どんな人生にも敗北はない」というものであった。

たとえどのような障害を持とうとも、
その人それぞれのすばらしい人生修行を歩んでいるのだ。
せっかく神仏から授かった生命である。
人間心で選択し、中絶していいはずなどない。

そう、「人生は一冊の問題集」なのだから。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 21日 20:38:51

「増税ではなくリストラを」

いかに政府が好況だと評しているとはいえ、
企業の優勝劣敗は厳しさを増し、
「栄枯盛衰」の域を越して「諸行無常」を感じさせるほどだ。
政府も構造改革を強く主張し、
また、省庁再編の実行等、そのタイムテーブルについているかのようではある。
しかし、血の出るようなリストラをしている民間からすれば、
政府自体の構造改革は、あまりに生ぬるい。
巨額の財政赤字をだしつつも、公務員が安閑としているのはおかしい。
民間ならば、まずコストを削減して、財務状態の改善を図るのがすじである。

国有資産など、売れるものは全て売りつくして借金を返済し、
また、無意味な公費の支出をカットすることは当然のことだ。
抵抗勢力とやらの反対でそれができないのならば、
国家を私物化し食い物にしていると、彼らを断罪するべきであろう。

既得権益という害虫を退治せずには、
いかに財政再建のためとはいえ、安直に増税をすることは許されない。

天下国家を考えず、私利私欲にまみれ続けるならば、
国益を省みずに省益をのみ求めるというならば、
それは亡国への道であると言わざるをえない。

どうか、政府は本気でのリストラを推進してほしい。
血の出るようなリストラがあってこそ、
国民は増税の痛みに耐えることが可能であると思うのである。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 17日 10:01:58

琉球新報への掲載投書です

「信じよう明るい未来を」
人間にとって一番大事なのは、「信じる心」である。
他人や社会、国家を信じられれば素晴らしい。
しかし、それ以上に素晴らしいのは、
「正しさ」や「やさしさ」、「愛」や「友情」など、
眼には見えない尊いものを信じることだ。
そしてさらにもう一つ大事なことがある。
それは「自分を信じる」ことである。

はたして、「自分の将来が明るい」と信じられるだろうか。
「自分の幸福な未来」を信じることができるだろうか。
そしてそれ以前に、「夢」を抱いているか、
「希望」を持っているかどうかが問われるのだ。
残念ながら、自らの能力も将来も信じることができず、
何の夢も希望も持たないという方が少なくはなかろうと思う。

だが、たとえ身は泥沼にあろうとも、心だけは遥か天空を飛翔できるはずだ。

夢は抱いた者の勝ちである。
希望は抱けば実現へと歩むしかない。
どうか一人でも多くの方が、「信じる心」の、
素晴らしい力を取り戻してもらいたいと思うのである。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 16日 20:44:16

「ゲーム機熱中の異様さ」

我家には小中学生の姉弟がいるが、
その同級生たちの多くが新しいゲーム機にひたっている。

学校でも、子供たちはゲームの話題で持ちきりだというし、
放課後の教室や校門の外で、
ゲームに熱中する異様な光景すら見ることが出来る。

子供たちは、「風の子」として戸外に出ても、
自然にも社会にもまったく無縁な存在であり、
ただただ指だけをいそがしく動かして、
バーチャルな世界に没入するのみのようだ。

この世に、ゲーム機の存在がなければ、
友達どうしで球技もしようし、
創造的な遊びにも目が向くであろう。
しかし、麻薬のようなゲーム機がある限り、
子供にとって、外の実在の世界は、実質的に存在しないのと同じだ。

ゲーム機業界にとっては、
子供たちは単なるマーケットでしかない。
しかし、少子化を迎え、彼らは社会全体の宝物でもあるのだ。

利潤追求の眼だけで子供を見ることはもうやめよう。

ゲーム機が「子供の健全な育成」に対して、
どれだけ害悪かを、直視するべき時期が来ていると思うのである。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 13日 23:03:13

発展繁栄の教育を

長女が、宿題で教科書の音読をしていた。
その文章の内容は、
科学技術と文明の発展によって環境が破壊され、
地球が汚染されている、といった内容である。

確かにその通りだ。
原始時代のまま、
あるいは、縄文時代のままで、狩猟採集だけしていれば、
耕地の拡大のために森林を破壊することもなかっただろう。
大量の二酸化炭素を排出することもなければ、
大気汚染、水質汚濁なども、発生するはずもない。
確かに、文明と技術の発展には、
環境破壊という、負の遺産は付きまとう。
ある意味で、確かに正論だ。

しかしその正論、
娘が読み進むに連れて、コチラはなにやら落ち込んでくる。

文明の発展、さらには人類の存在自体を、
あまりにもネガティブに捉えているように思えて仕方が無い。
自分自身の存在すら、地球にとっては悪だと思ってしまう。

この人類、文明、科学技術に対するネガティブさ。
科学文明の高度な発展の、
そのカウンターウェイトとしては確かに成立する議論だが、
この「環境」サイドからの視点だけを、
子供たちに与えることは、一体いかがなものだろうか。

私が住んでいる関東平野も、
鎌倉武士の先祖が開墾するまでは、
一面の森林や草原であったに違いない。

父祖たちが営々と築き上げてきた結果として、
多くの人々の生活空間としての首都圏が、
今存在しているのだ。
我々が、高度に文化的な生活を送れるのは、
この開発行為があったればこそだ。

その発展繁栄が全く無意味で、
この首都圏が、古代の武蔵野のまま、
無人の野であった方がいいなどというはずはない。

環境教育も結構、
自然との共存は至上命題だ。
しかし同時に、発展繁栄の教育も、
子供たちには必要だと思うのだ。

開発至上主義も極端な考えだし、
環境至上主義もまた原理主義的である。

仏教でも教えるではないか。
何事も中道が肝心だと。

中道とは、断じて「てきとう」の勧めではない。
(”ひろさちや”はそう言っているが)
極端を断固として排した、中なる黄金の道だ。

中道の精神に立ってこそ、永続的な発展の道が開かれる。
「中道からの発展」
この精神をこそ、子供たちに伝えてもらいたいものだ。

コメント[0], トラックバック[0]
登録日:2006年 07月 12日 07:17:09

1   |   2      »      

カレンダー
< 2006年 07月 >






1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31




プロフィール
隊長
隊長
(男)
1959年07月13日
飯田商会ホームページ
メルマガ「自動車整備の本当の話」
「仕事だから」という言い訳しながら、悪いことしてる人は
古今東西後を絶ちません。
色々な投機話や健康グッズ、百鬼夜行の如くに
欲にまみれた妖怪のオンパレードです。
それは自動車業界でも同じです。
しかし、市場経済至上主義とは、儲かれば何をしてもいいことではないと
私は思ってます。
仕事とは、それを通じて社会に奉仕すること。
自らの発展の過程において、社会全体の幸福にも寄与できること。
当社は大発展を目指しつつ、それが社会全体の幸福に繋がるべく
努力して参ります。

飯田 剛
最近のトラックバック
[11/14] 知ってた??
お気に入りリンク
検索