2006年 08月

「悪だくみ」としての道州制導入

行政組織は、時を経るにつれて確実に肥大する。
それも明治以来、積もりに積もった制度疲労だ。
現状では既に覆い難かろう。

「小泉改革」で行政府のリストラが模索されているが、
外部の国民の目から見れば、官僚の抵抗は頑強で、
着地点の「小さな政府」は、未だ可能性すら見えてこない。

徐々に改善を図るという官僚と組織の「漸減作戦」は、
種々の後退戦術で対抗されて、
消耗戦、長期戦の様相を呈するに違いないのだ。

そうなれば、政治家や一般国民の
「日本政府根本リストラ作戦」に、勝ち目は薄くなる。
長期的に息長く活動することでは、官僚組織に勝てるはずはないからだ。

解体されたはずの特殊法人が、
看板を架け替えて民間会社として生き残っているなど、
官界は既得権益の保護のためには智慧の限りを尽くしているだろう。

だからこそ、行政府の枠組みを根こそぎ変えるような、
根本的なリストラを求めたい。
ルールを根本から変えてしまえば、これまでの戦術は一切が無と化すからだ。

その意味で、道州制の導入に、大きく期待したいのだ。
冬季競技のルール変更で、日本人選手が割りを食ったように、
「道州制ルール」施行で、官界プレーヤーは寄って立つ基盤を失うだろう。

そして日本全体の仕組みを白紙に戻したあかつきに、
ゼロから体制を積み上げていけばいいのだ。

既存の枠組みの体系的な廃棄。
このリストラ中のリストラとなりえる「道州制の導入」に、
日本国政府の再生の可能性を見いだし得たと思うのである。

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登録日:2006年 08月 29日 20:28:15

銀行の使命

消費者金融が町中にあふれ、マスコミの広告も同様である。

かつての日陰者は、この数年、すっかり市民権を得たようである。
そのこと自体にも疑問を感じるが、さらに完全に首をかしげてしまうのは、
銀行の資本が消費者金融部門にも参入してきたことだ。

本来、銀行の社会的使命は、
国民からたくされた金融資産を社会にとって有効に活用することであるはずだ。
銀行にとっての付加価値とは、
智恵と資金を投入して、新たなる産業を育成していくことにある。

それが、かつてバブルに踊った時期は、
潤沢にあった資金を有効に活用する智恵を持たず、
ただただ土地を担保としての融資しかできない思考停止状態であり、
地価の狂乱を現出し、
あるいは、無為に帰すような海外への投資を行っていたことは記憶に新しい。

それが、性懲りも無く、価値創造の本来のあり方から背を向けて、
こともあろうに消費者金融に手を染めるとは、
一体、この思考停止状態は、どう説明すればいいのだろうか。

利益が出ればなにをしてもよいわけではあるまい。
銀行も生き残るのには大変なご時世であろうが、
この危機の時にこそ、原点に回帰するべきである。

社会を繁栄させるという、銀行本来の使命に立ち返り、
その崇高な使命を果たされることを、切に望みたい。

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登録日:2006年 08月 28日 21:18:55

ディーゼル車規制への疑義

環境省の中央環境審議会の自動車排出ガス専門委員会が、
早ければ07年以降、ディーゼル車の排ガス規制を強化し
「世界最高水準」を目指す考えだそうだ。

しかし、多少複雑な気にさせるのは、
これまでの排出ガス規制の全てが、
エンドユーザーの自動車使用者の負担によってのみ
実施されてきたからだろうか。

規制のたびに、エンドユーザーが車両を買い替えたのは、
「この自動車は環境に悪い欠陥品ですから、
これ以上の使用は認めません」
と宣言されたからだ。
しかしそんなことは車両の購入時には想像もできなかったし、
好んで環境に優しくない自動車を購入したわけでもない。

今日のディーゼル規制問題には、種々の当時者がいる。
規制が後手後手に回った行政府、
低硫黄の燃料の開発を怠った石油業界、
低公害ディーゼル車を開発しなかった自動車メーカーなどだ。

しかし、その直接責任者がなんの負担もせず、
どうしてエンドユーザーにだけ経済的負担がかかるのであろうか。

さらなる規制の強化に反対はしない。
それは長中期で成し遂げなければならない課題だ。
しかしこれまで同様の、
エンドユーザーに負担を強いるだけの安易な解決策だけには、
頼らないで貰いたいと思う。

日本の納税者はいくらお人よしだとはいえ、
いくらなんでもそろそろ気が付いてもいいころだからだ。
「なぜ消費者だけがコストを負担するのか?」
ぼちぼちこんな声が聞こえてきても、なんらの不思議はない。

播いた種は自分自身で刈り取るべきである。
これを自己責任というのだ。

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登録日:2006年 08月 26日 14:18:07

祖父母

核家族化の進展で、祖父母と同居しない子供が多い。
共に生活をすることがないのだから、
知識としては祖父母を知っていても、
本当の意味で祖父母の存在を知っているとはいえなかろう。

それだけでも大変な激変なのに、
それ以外にも、子供たちの環境は激変している。

都市化の波、
共稼ぎの家庭の増大、
ゲーム漬けと塾通いの日々等々。
子供にとっては大変な時代だ。

しかし、それは大人にとっても同じである。
ことに出口の見えないこの不況の中にあっては、
ストレスは解消されずに家庭の中にまで持ち込まれる場合も多いようだ。
大人も子供も解消されないストレスを、
核家庭の中で発散するとすれば、
家庭はそれこそ地獄ともなろう。

それが、祖父母も存在する大家族の中であるならば、
子供にも親にも逃げ場はふんだんに提供される。

祖父母の存在とは、
子供にとっては、
無条件で愛してくれるシェルターになろうし、
その両親にとっては、
共稼ぎ家庭のバックアップ者として貴重な存在となる。

健全な家庭を営むだけでも大変なこの時代、
その救世主として、祖父母の存在を考えてはいかがだろうか。
子供たちにとって福音となることは確実であるし、
求められる存在と化した祖父母には、
ボケているヒマなどなくなるのではなかろうか。

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登録日:2006年 08月 24日 18:21:32

真の日中友好に向けて

日貨排斥運動に反日騒擾、
不況に活路を見いだすために中国に進出する日本資本等々。
最近新聞紙面を賑わす中国報道は、
どうしてこうも日中戦争開始以前の情勢に似ているのだろうか。

もちろん、日本は大陸に出兵することもないし、
斉南事件のように暴虐な事件が起こるわけでもない。
半世紀で日中関係も多少は改善しているのは当然のことだ。

しかし、戦後の半世紀、日中友好を口にしはしても、
実際に友好は実現されたであろうか。
日本側の問題はさほどはない。
確かに外国人に対する排他性は残るし、
外国人犯罪の激増で、在日外国人への視線は厳しくなっている。
だが、人種や国籍で人間を差別することも少ないし、
平和憲法と戦後民主主義教育のせいか、
世界平和と友好の方が、
日本の安全保障よりもよほど重要事となっているほど、
日本は世界の優等生となっている。

問題があるのは中国側であろう。
一貫して反日教育を国民に施している。
それが完全に事実ならば、
日本は反省こそすれ文句を言うべき筋合いにはない。
だが、荒唐無稽な政治的プロパガンダを駆使して、
反日教育を国家的に施しているのが、現在の中国政府の姿だ。
人民を挙げて反日に仕向けてきた結果が、
今日の反日騒擾へと結びついていることは間違いない。

これをこのまま黙って放置していても良いものであろうか。
両国の今後の真の友好関係を確立したいならば、
あまりに行き過ぎた反日教育や反日行動には、
是々非々できちんと対応、指摘することが必要ではなかろうか。
明らかな事実誤認、あるいは捏造に関しては、
厳しく事実を指摘して訂正させる必要がある。

もちろん、過去の日本が中国に侵略したことは間違いない事実である。
だが、それは「だから何をいわれても仕方がない」と
全ての要求を丸呑みすべきだということではないのだ。

現在の中国には、政治的な自由は全くない。
国家に逆らうことは破滅を意味する。
無論、報道の自由も表現の自由もないし、
結社の自由も信仰の自由すらないのだ。
中国における全ての行動やアピールが、
真理や事実に基づくものではなくて、
政治的、あるいは利害得失によってのみ
図られていることは知るべきであろう。

そのような国家と共存共栄するためには、
お人よしの側面だけ出して付き合っても、
対等な関係になるはずがないことは自明である。

ただ、日本は権謀術数で接してはならない。
侵略という、すねに傷を持つ身なればこそ、
あくまで事実と真実を前面に、
粘り強く是々非々の姿勢を断固として貫く必要がある。

いかに日中戦争前夜に相似するとはいえ、
まさか軍事衝突にいたるようなことは、万に一つもあるまい。
だが、両国民に中に醸成されるお互いへの思いは、
正に危機的であることは知るべきだろう。

その危機を最小限に抑えるためにも、
日本の断固とした姿勢、至誠の下の是々非々の態度こそ、
現在求められることではなかろうか。

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登録日:2006年 08月 18日 19:48:06

自殺者減少の対策を、交通安全対策並に

かつて、「交通戦争」とまで評せられ、
莫大な死者を毎年出していた、交通事故による死者は、
関係各機関の尽力により、順調に減少している。

七〇年の最悪時には、
一万六千人以上もの交通事故死者が出ていたのを、
七千人台に抑え込めたのは、
官民一体の取り組みの成果であると、祝意を表したい。

さらに一人でも死者を少なくするために、
これからも多くの努力をお願いしたいと思う。

しかし、交通事故死者数が順調に減少している一方で、
残念ながら、自殺者は極端に増加している。

ここ数年、年間の自殺者数は、
日本全国で3万名を越えている。
これは交通事故死者数の4倍ともなっているのだ。
自殺者減少のために、官民挙げての大努力をなさねばならない。
それも、一刻も早くである。

単純に犠牲者の数で比較すれば、
交通事故死者減少に対する努力の4倍以上の労力を、
自殺者の減少のために充てるべきだとも考えられる。
少なくとも、交通安全対策以上の感心を、
自殺防止のために振り向けるべきだと思うのである。

自殺者は、悩み苦しみを嘗め尽くして後に自殺する。
その最大の悲劇に到る前に、
なんとか手を差し伸べることはできないだろうか。

交通事故対策以上の努力を、
早急に立て、実行するべきであると思うのである。

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登録日:2006年 08月 16日 18:53:33

偉人伝が流行らない

子供どころか、大人までもが読書離れをしている。
子供だけに読書の勧めをしても、
肝心の親自身が読書を楽しんでいなければ、
読書好きの子供などできるはずもない。

子どもに読書を強制すれば、
決して読書好きな子供はできず、
かえって活字離れは加速しよう。
やはり、「教育は親の背中で」と言うとおりに、
親自身の読書好きの姿で、
子供を感化するのが王道ではなかろうか。

しかし読書のジャンルで、
残念ながら最近は流行らないものがある。
それは偉人伝である。
偉人の定義には多々あろうが、ばっさりと切ってみると、
偉人とは、「最高の自己」を時代や社会に捧げ、
無私無我にして奉仕の人生、
煌きの人生を選んだ方々であろうか。

ここで疑問なのは、
我々親の世代は子供たちに、彼ら偉人のような人生を、
本当に送ってもらいたいと思っているかどうかだ。

全ての努力精進は、自らの自己実現のためであり、
偉人の生涯など全く求めてはいないのではなかろうか。

子供たちが私利私欲にまみれ、
川原の石ころのような人生を送るか、
はたまた煌きの人生を送って世を照らすか。
親の価値観は常に問われている。

最低限でも偉人伝に接し、
偉人たちの煌きの人生を、
子供たちに知ってもらう必要がある。

だがそのために、それに先立って何よりも必要なのは、
偉人に感奮する純粋な心を、
我ら親たちが取り戻すことなのかもしれない。

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登録日:2006年 08月 13日 21:02:57

中国における宗教復権の必要性

中国語の先生と映画を観に行った。
その映画の中に、6世紀の中国で活躍した高僧、
天台智ギが悟りを求めて天台山で修行する場面があった。

天台智ギは中国の仏教史の巨人であり、
国師として皇帝の帰依も受け、
また天台宗の宗祖として、その名を隠しようもない高僧である。

しかし、驚いたことに、
中国の知識階級である私の先生は、
中国天台宗も天台山の存在も、
そして天台智ギの高名も全く知らなかったのである。

中国の戦後教育の偏向ぶりは聞いていたが、
まさか自国の歴史上の偉人の存在まで抹殺するとは思いも寄らなかった。
もちろん抹殺のその理由は、
単に天台智ギが宗教家であるからだ。

たしかにマルクス史観では「宗教はアヘン」であろうし、
宗教勢力が中国歴代の王朝交代の原動力であったのも事実である。
中国政府が政治的対抗勢力として宗教を警戒しているのは、
法輪功の弾圧を見ても明らかだ。

しかし、高等宗教を抹殺してしまっては、
倫理や道徳の基準、さらには良識の根拠を
一体どこに置くことができるのであろうか。

その代替物として、中国で機能してきた共産主義の理想が、
既に夢と消え去った今、
中国における人としての道は、
そのいずこに根拠を置くつもりであろうか。

一部、経済のみが発展し、精神性やモラルが取り残されているのが中国の現状だ。
このいびつな発展を脱却し、
今後の中国が更なる永続的発展を目指すのに必要なのは、
その経済の発展を超える、モラルや精神性の向上それ自体への努力であろう。

そのためには、宗教的常識、および心の教育が必要不可欠である。
最低限でも、自国の歴史上に燦然と輝く、
天台智ギなどの偉大な宗教家の復権は、
成し遂げられねばならない。

人間と動物を分けるものは、「信仰心の有無」であると聞く。
隣国中国が、経済のみならず精神性においても
大国を目指されることを期待したい。

もっとも、それは我が日本に対しても、
声を大にして言いたいことではあるのだが。

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登録日:2006年 08月 11日 08:04:05

申告漏れの報道に思う

昨今、税務調査で申告漏れを指摘される企業のニュースは多い。

そのたびに不思議な印象を受けるのだが、
指摘を受けたどの企業も一様に、
「見解の相違があったが、受け入れた」と
のコメントを出す。

税システムが複雑なゆえに、
様々な節税テクニックが生み出され、
「見解の相違」が生じるのである。
しかし、節税を講じるか否かで税額が変わるというのは、
公平性で問題はないだろうか?
あるいは税務当局が経費として認めるか否かで、
税額が変わっていまうというのは、
これは制度としての不備があるのではなかろうか。

そこには税務当局の恣意が入る余地もあるし、
公平性が損なわれる可能性すらある。

まったく同じ経済行動でも、
その後の税金対策によって、納税額が違ってくるのだ。
これも、複雑怪奇な税制の故であると言えるのではないか。

やはり、現在の税制は、もう改める時期であろう。
簡素で低率な税制の実施は、
公正で公平な税負担を実現する。
社会全体での経理事務の節減をも可能とし、
有為の人材を、なんらの価値も生み出さない「節税」という、
後ろ向きの仕事から解放することを意味する。

それはまた、多くの繁栄を生み出すこととなるのではないだろうか。

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登録日:2006年 08月 06日 17:00:59

「情けないモラルの強制」

千代田区や日光市を皮切りとして、
日本全国の自治体で、歩きタバコ禁止の条例が制定されている。

歩きタバコの吸殻は、ほとんどがポイ捨される。
それをなくすためには、
路上の喫煙自体を禁止するしか、方法がないということだろう。

ポイ捨てを当然の前提として喫煙している諸公は、
すでにゴミを捨てることに対する
抵抗感を喪失しているように見える。

分別盛りのいい大人が、
平然とゴミを路上に捨てている光景を良く見るにつけても、
もう個人の良識にだけ頼っていては、
社会のモラルの維持はしきれないのかと、
まったく落胆する思いだ。

条例での強制もやむを得ず、といった所であろうが、
なんとも情けない話である。

こうしたモラルの崩壊が進展すれば、
ポイ捨てに限らず、ありとあらゆるモラルを、
法律によって強制させる、といった事態まで想像できる。
個人と社会の良識が信じられず、
社会の秩序維持のためには、恐怖政治も厭わず、という事態だ。

そうなる以前に、精神性の復権を。
社会全体での良識の復権を、
なんとしてでも考えるべきではなかろうか。

どんなに素晴らしいものでも、
強制されれば、それは苦役なのだから。

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登録日:2006年 08月 03日 22:04:40

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プロフィール
隊長
隊長
(男)
1959年07月13日
飯田商会ホームページ
メルマガ「自動車整備の本当の話」
「仕事だから」という言い訳しながら、悪いことしてる人は
古今東西後を絶ちません。
色々な投機話や健康グッズ、百鬼夜行の如くに
欲にまみれた妖怪のオンパレードです。
それは自動車業界でも同じです。
しかし、市場経済至上主義とは、儲かれば何をしてもいいことではないと
私は思ってます。
仕事とは、それを通じて社会に奉仕すること。
自らの発展の過程において、社会全体の幸福にも寄与できること。
当社は大発展を目指しつつ、それが社会全体の幸福に繋がるべく
努力して参ります。

飯田 剛
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