新しいものの底

500万円のロマネ・コンティ、チャリティーオークションに出品 - スイス

【ジュネーブ/スイス 14日 AFP】世界最高級といわれるフランス、ブルゴーニュ(Bourgogne)のワイン、ロマネ・コンティ(Romanee-Conti)の生産量は、年間にわずか600本である。
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(c)AFP/FABRICE COFFRINI

AFPBB News


 「昭和がなつかしい」みたいなのが普通にいわれだしてから、もうずいぶんになるけれど、あれが最初にいわれだしたころ、僕はとても変な気がした。だいたい「なつかしい」なんて年寄りが口にする言葉ではなかったのか。

 僕らのような世代(昭和40年代生まれ)のものにとって「なつかし」といえば、たとえば親らが見ていた「なつメロ」とか午後の「なつかし映画劇場」とかの、見

たことも聞いたこともない(ま、中には見たことぐらいある人とかもいたけれど)歌手や俳優が出てきてはしゃぐ、何がいいのかと首をひねるような古くさい歌や芝居とかで、「ああなつかし」と見ていた親らも「しかしまあ、あんなもん今出てきても売れへんわ。昔やから売れたんや」などと毒づいてたりした程度のものだったのである。 

 しかし、昨今の「なつかし」は少し様子が違う。もっと「なつかし」に肯定的というか「いいものは時代を超えていい」的というか、むしろ「なつかしの方がいい」「なつかし大好き」「なつかしだけで飯何杯でもいけるわ」と「それ」を経験していなかったであろう若い人らまでもが、いう。建てられかけの東京タワーとか、いちいち前までいってチャンネルをひねらなければならないテレビだとか、若いころの母親だとか、昔の給食だとか、何だとか、を。古くていいのはワインだけじゃないのであるこの頃は。
 
 で。

 それと同時に「新しい」ものが、昔ほど威力を持たなくなった。だから歌手は困ると「ベスト盤」を出す。劇団も困ると再演である。で、それが売れる。昔は、ていうか、僕らが子供のころは、とにかく新しけりゃよかった。「ベスト盤」より「新曲」の方がよかった。仮面ライダーだって「次どんなん次どんなん」で、ときおり出て来る昔のライダーとかを見ると「おお」と思うより「ふるっ」と思ったもので、ついて行ける間は、どんなに奇天烈なデザインのものでも新しいのがよかった。再演などでお茶濁そうとしようものなら唐十朗あたりに飛びかかられて「過去、ふりかえってんじゃねーよ」と殴られた。

 ま、それはよくわかりませんけど。

 しかし、どうも今は違う。新しけりゃいい、という幻想の底が見えたみたいに、別に「新しい」ということだけで、誰も喜ばなくなった。

 そりゃまあそうですよね。「新しい」「新しい」とかいいながらどこまで行くねん、いう話しですしね。けれども、時代は途切れず続いて行くわけですしね。限界がありますわなそりゃ。どこかで1度「懐かし」に戻ってないと、しまいにどこかで奇天烈を通り越してしまう。みたいなことまで、もう見えてたりするから、事態はややこしいのですけれども。

 僕の身長が180を超えたとき父は「ははあ。こうやって日本人も外人みたいに大きなんねんな。ははあ」と、無邪気にいうていたものだけれど、もうそのいい方に「外人みたい」を「善きこと」と捉えようとする、そのかつての日本(今でもか)の貧乏くささが見え隠れしていて、哀しい、のだけれども、とにかく、そのとき何が起こっていたかというと、こうして人の背もどんどん高くなり、子供のときからピンクレディーじゃなんじゃを聞いて踊っているのだから、リズム感だって盆踊りのノリじゃなく、みたいな、みたいなそんな「何かわからんけど未来は明るい」的な感じがそこかしこにあふれていたのである。だけれども、あれからずいぶん時代は進み、あらためて見回してみても、別に何かが劇的に変化したわけでもなく、いつまでもみんなちっちゃいし、むしろ縮んでいるような気さえするし、リズム感とかも、別にまああれだし、明るかないし別に、で、ようするに、見えた。いろいろなものの限界が。

 ただまあいつまでも「なつかし」が続くとも思えず、だからといって再び「新しけりゃいい」というのも少しの間、反発としてあらわれるかもしれないけれど、1度底は見えましたし。そろそろそこらで「今よりも昔か未来」みたいなうっちゃり方じゃないモードに突入するのではないかと、僕はにらんでいるのだけれども、僕がにらんだところで家の猫が鳴くくらいで、何かが変わるとも思えませんのですが、ただここまできて、新しいものの底は見えたと書いたのに、ここの終わらせ方が見えなくなっているので、にらんでいることにして、もっともらしい感じで終わらせようと思うのです。



 

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登録日:2007年 05月 14日 18:31:17

コメント

「今、コレが最新」
みたいなものに毎日関わっていると
「そうか。今コレが新しいのか。」なんて通り越して
だんだんと吐き気を催してくるのでございます。
で、自分の中でもうソレは新しくもなんともなく。

するとその反動はどこにくるかというと
呑み屋で旧い神戸弁なんかを他府県出身の人にひけらかして喜ぶ
哀しい昭和40年代生まれの現実なのでございます。

yuko @ 2007年 05月 16日 06:43:36

おそらく私の人生このままゆけば、人生半ばであり、色々と振り返られる過去の経験も、当時の悪しき思い出すら、今になって、人との距離を縮めるに値する財産であったりするのだと…最近経験した。というか、しみじみと感じている。
そうして、思うのは、なんだかやっと自らで生きることが出来るようになったのではないかということ。
私もまだまだ気持ちの上でも、変化していくのだと容易に思えるのですが、でも、自分の〈底〉を一度見た気がしています。
隠居とは違う、もっと可能性がその先にあると思える嬉しさっていうのかな~
自分だけでは叶えられなくても、人との出会いによって、それは予想もできないものへと花を開かせてくれるのかもしれない。
人は、人と生きてこそ、楽しいのですね(*^_^*)

kiki @ 2008年 04月 21日 16:51:35

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