記憶の捏造再び

 先日、用件があって、昔の写真を引っぱり出してきて、かなり久しぶりに「ちゃんと」見た。

 卒業アルバムや写真の多くは、例の震災でどこへ行ったか行方が知れないのだけど、ダンボールに詰め込んでそのままにされていた一部の写真は、見たりすること

はないけど、手元にあって、だからまあ見た。

 それはとても小さい頃のもので、生まれてしばらく経った頃から、小学校へ入るあたりまでのもので、だいたいそのあたりの記憶は、実際の記憶(ま、これがいずれにせよ怪しいのだけれども)と、親らに幾度となく聞かされて「かたち」になった記憶、それとあれら写真による記憶があって(もちろんすべてがそのどれかだとは思わないけど)、ぼくもそうして記憶された記憶を思い出しながら、それらの写真を眺めていたのだけど、眺めていて、その記憶のおそろしく不確かなことにあらためて驚いた。

 ぼくの実家は、謙遜でもなんでもなく「まずしい」部類で、それはもう詳しくは書かないけれど、今に続く事実が証明するので間違いがない。だから、よくテレビで「子だくさん」な家の「お古のお古」を着せられた子供たちを見ては「ああ、わたしも昔はこうでした」と「袖口あたりのすり切れた服を大事そうに着ていたわたし」を思い返したりしていたのだけど、写真で見る当時のぼくは、なかなかに「良い恰好」をさせられていて、大人の目から見るとむしろ「おしゃれ」ですらあって、恰好だけ見れば貧乏人どころか「おぼっちゃん」風なのである。

 そのうえ、そんなものをしてもらったことがないぐらいの勢いで記憶していた「七五三」も、写真を見るとちゃんとしてもらっていて、してもらっていたどころか、きちんとブレザーを着て、上着とそろいの生地の半ズボンまではいて、そのうえハンチングのような帽子までかぶせられていて。くどいけれども、そこだけ見れば「おぼっちゃん」な「おしゃれ小僧」なのである。

 なにこの食い違い。

 ぼくたぶんいろんなところでいろんな人に自慢してましたよ。「俺はほら貧乏な家で育ったから、服はぼろぼろやし、七五三なんか見たことも聞いたこともない」とかって。

 えー。

 だからまあようするに結局、どこで育って、どんな育てられ方をされて、子供のときはああでこうで、何が得意で何が嫌いで、の総体が「わたし」で「あなた」だとぼくらは思い込んでいるけれど、ほんとうはそんなものはとてもとてもあやふやなもので、いくつかのものはこのように落ち着いて「きちん」と写真を眺めれば消し飛んでしまう程度のもので、だからそんなものではない「わたし」こそが、たぶんぼくの知りたい「わたし」で、それはまだ何なのかよくわからないけど、でもたぶんそうで。

 そうじゃないと、ぼくのような「思い違い」をよくする「早とちり」な「妄想家」は、人に「わたし」を語るのに、いちいち記憶の確認作業をしなくてはならなくなる。

コメント[6], トラックバック[0]
登録日:2008年 04月 16日 03:41:59

コメント

なんというか、よかったですね。
逆は辛いよね。写真とか見て幸せな記憶が実は不幸だったと再認識させられると。

ロンロン @ 2008年 04月 16日 14:36:01

はじめまして。
いつもFICTIONの公演のお知らせとブログの更新を楽しみにしながら、毎日を凌いでいる者です。
山下さんの文章を読んでいると、「あぁ言われてみれば」と思わされることがたびたび。
ちょっとしたことなんでしょうけれど、なんだか根本的なことのようにも思えて、ふと立ち止まって考えさせられます。
人の記憶って、いい加減なものですね。
少なくとも、そう思っておけば、あまり偉そうなことも言わずに済むかもしれないです。

めん @ 2008年 04月 17日 00:06:05

はじめましてです。
私は何かにつけて写真を撮るのが好きなんですが、澄人さんのお話を拝読して
改めて記録する事の大切さを痛感しました。
私も『立派な貧乏育ち』を自負していますが、しまい込んだ写真を見てみたら
澄人さんのような捏造があるかも知れませんね(*^▽^*)ゞ

ゆるり @ 2008年 04月 17日 01:51:10

>そんなものではない「わたし」

これいいなあ。それはどんな「わたし」なのかなあ。そんな「わたし」をわたしも知りたいです。

eri @ 2008年 04月 17日 02:29:45

 本当に記憶なんて不確かなものですね。私にも一枚の写真から「思い違い」に気づき、涙を流した経験があります。その一枚は目を閉じいても不思議に、はっきり思い出すことができます。 記憶は現在の認知の歪みを生むこともあれば、矯正してくれることもある・・・そういう意味でも本当に不確かなものですね。

 95歳の義母は、まさしく「記憶の捏造」の中で生きています。彼女の記憶は現実とはかけ離れたものである一方、その記憶が今の命を支えていることがわかります。 こんなばあちゃんを見ていると、記憶って何ぞやと思わずにはいられません。

 このブログを読んで、写真をバッサリ捨てようと思っていたのをふみとどまりました。だんだん海馬もやられつつある感じだし、も少し置いておこうかな・・・

でも写真の整理って本当にめんどくさいんだよなぁ・・・

nana @ 2008年 04月 17日 10:33:42

いつも見ている鏡に映る自分は、本当の自分じゃない。写真を見ると、あれ?こんな?と良くも悪くも、意外に感じることがある。自分では気づいていないクセを、他人はいとも簡単に感じたりする。自分で自分を研究することなんて、客観的に他人を見るように、果たしてできるのだろうか?
心の中でさえも、自分では理解できない気持ちに突然振り回されることはある。理解できれば、緊張したり、泣いたり、不安になったり…そういうネガティブなこともコントロールできるのではないだろうか。数人が同じ場所で何かを体験しても、同じように感じるとは限らない。殊更後々語られる記憶すら、同じものではないはずで… その時の自分が感じている生活や人間関係によって、もしかしたらお腹の具合によって(笑)、記憶も、捏造?…とらえ間違えて、自分の勝手な思い込みで色々と変化してしてしまうのかもしれない。
自分の記憶は自分が作る。創る?
山下さんも「うちは貧乏だ」と幼い頃に感じる何かを体験したか、感じたか、すり込まれたか、そんなものから発する〈ものの見方〉だったのかもしれない。
そうでない、当時の「わたし」。親が子にしてあげられる大事なことって、もしかしたら、そういう記録を残してあげることなのかもしれない。これを機にアルバムを開いてみるのも楽しいかも。そこに親の愛がつまっていると改めて感じるかもしれない(*^_^*)
私の母が亡くなる前の数日間、もう意識が時々おかしい時に、妙なことをいうので、姉に尋ねたら、それは子供の頃に疎開していた家のことだと教えてくれた。嫁として義理の母にいたくいじめられた母が(私が小さい頃に祖母は亡くなっていたので私は知らないのですが)その後35年近くも色々な病との日々を経験し、最後に行き着いたのは、子供の頃の楽しかった日々だったようで。とっても楽しそうだった。時々意識がはっきりして、私のことはわかったけれど、時々どこか楽しい世界へ意識は飛んでいた。「へ~、そうなの、それで?」と私が言うと、誰だかわからない私と会話をしたりした。
私もそうなったら、山下澄人のFICTIONをずっと観ている世界に飛びたいな~。なんか悲しいコメントになっちゃった^_^;しんみり…
記憶が確かなら、テストなんて満点だ(笑)(笑)(笑)

kiki @ 2008年 04月 19日 10:26:18

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プロフィール
山下澄人
(男)
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FICTION構成員の日々
「FICTION 」主宰。映像、ラジオドラマのシナリオも手がけ、2005年には初監督作品「ON THE ROCK」を発表。

新作公演 FICTION Vol.30「しんせかい」
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