花粉がすごくいや

 去年もやったのだけど、今年もワークショップをやる。まずは、4月に札幌で。その次、5月に川崎の新百合ケ丘で。 

 で、特筆しておきたいのは、どちらも、劇場が場所を、そのぼくのするワーク

ショップに提供してくれるということで、そりゃあまあ、名の通った人になら、そういうこともあるのだろうけど、ぼくのような無名の何処の馬の骨に、何日間にもわたって、場所を、それも劇場を提供してくれること、というかところなんて、なかなかない。

 もちろん「ありがたいありがたい。ありがとうごぜえやす」というだけの話ではなくて、それなりにこちらも「そりゃそうでしょ」という思いも、なくはないのだけど、それにしたって、そういう機会というのは、ないのだから、その札幌のシアターZOO( http://www.h-paf.ne.jp/ogist/index.html )という劇場と、新百合ケ丘の川崎アートセンター( http://kawasaki-ac.jp/ )という劇場を、ぼくはとてもえらいと思うし、そういう活動を臆せずやろうとする劇場が、どんどん増えればいいのに、と思う。

 さっき、突然、あーそーかー、と思ったことがあって、それを何度も字にしようとしているのだけど、書くと何だか面倒臭い、こむつかしい、感じにしかならなくて、で、ああこれが前回エントリーのコメント欄でいろいろといわれていたことかもな、と思ったから、話の種になればいいと、もう1度、挑戦してみる。

 それは、いつも書くのに使うバス停が見える喫茶店で、バスに乗る人たちをぼんやり眺めながら、思ったことなのだけど、えーと、ぼくの見ていたバスも、人たちも、その向こうに見えたマンションも、暮れていく空も、全部、「現実」と呼ぼうと思えば呼べるのだけど、ていうかまあ「現実」なのだけど、何ていうか、それを「ぼく」が「ぼく」の目を通したとたん、少し何かが変化するというか、そのもの、ではなくなるような気がして、それは字にしたり、口にしたりしたらもう果てしなく違うものになっていって、ということは、それは、ほんものの「現実」というものでは、もしかしたらなくて、で、なら、ほんものの「現実」というのは、どんなもので、そんなものに出会えるのかと考えていたら、それはもしかしたら、ぼくが死ぬとき、というか、死ぬ「瞬間」そのときにしかなくて、というか、ないのではないか、というか、わかります?この感じ。みたいな。

 あかん。やーめた。

 ぼくは運転が下手だと、ぼくの運転を知っている人みんながいうのだけど、ぼくはまったくそうは思ってない。だから、正直、何のどこを「下手」といわれているのかわからなくて、だから基本的に何をからかわれても平気なのだけど、そのことをからかわれると少し「いらっ」とする。だけど、その、そのことだけはからかわれると「いらっ」とする、という部分に、何か秘密はありそうな気は、する。

 こないだ家人と歩いていて、新しいパチンコ屋ができていたので、「のぞくか」と入って、プラプラ見ていた。家人はパチンコに興味がないから、何もいわずぼくの後を歩いていただけなのだけど、ぼくはやっぱり「少しやりたいなぁ」と思っていて、だけどそんなに「すごくやりたい」というわけでもなかったし、お金も持ってなかったので、「やりたいのですけど」とも何もいわず歩いていて、だけど店を出たところで、やっぱり少しだけ試しにやってはみたかったから、少しやりたかったということを口にしたら、家人は「やる?」といい、「やるならやれば?」と畳掛けてきた。そういわれると、別にこちらもそんなにやりたいわけではなかったから、「いや別に」といったのだけど、いった後で、何かとてもいじわるをされた気がして、それを何とか家人に伝えたくて、いろいろ考えてみたのだけど、うまいこと考えつかなくて、ていうか、今も考えついてない。

 花粉、ていうか別の生き物の精子の粉、飛んでますよね?関東地方。いややなー



 

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登録日:2009年 02月 18日 20:19:18

コメント

パチンコ、、、。
藤沢でやってるんだけど、、ま、スロもよくやるけど、、
パチンコはすごーく選択肢が増えてびっくり!
普通は玉ひとつ4円。
それが1円専門店ができて、そこはスロットもコイン一枚普通20円だけど、5円!
その店が2月20日から、パチンコ2円コーナーを作るんだって。
そうなると、4円、2円、1円と、、その財政状況気分に応じてパチンコが楽しめる、、っていうわけ。


そこに在る現実、、。
人類最後のひとりが浜辺で真っ赤な夕日を眺めながら、、、ついに息絶える。
その時、夕日はまだ赤いままか?
これは哲学でよく取り沙汰される命題。
夕日が赤く見えるのは、色を識別できる動物、主に人間だからこそ。
いや、人間でも先天的に盲目の人にとっての夕日とは? まして色とは?(前にもちょっと論議出たけど)
そもそも色は物質ではなく現象だから、本当の赤なんてものは存在しない。
まわりの光量が変われば赤もまた変化する。
では、どの明るさで見た時の赤が本当の赤? という論議は成立するのか?
一般社会では4色分解などして色を混ぜ合わせ、便宜上◯◯カンデラを当てたときに見えるこの赤を赤と呼ぼう、、というふうにしている。
そうしないと、印刷物とかで色を指定できないから。
それはともかく、少なくとも言える事は山下くんが認識している世界は山下くん固有の五感がとらえた世界(現実)でしかなく、
対象を必要としない客観的な現実世界などどこにも存在しない、、、という考え方に僕は与する。
もちろん触覚もそれと同じように個体それぞれによって違う。
蜂が空を飛ぶ時は、人間で言えば、まるで粘っこい液体を押しのけるような感覚をもって大気を押しのけている、、という。
蜂にとっての大気とはそういう物質。
で、その蜂は小ちゃくて象はでかい。
なぜか?
それは人間が自分の体の大きさを基準にして判断するしか世界を認識する方法がないからだ。
話ずれた?(笑)

がぶん@@ @ 2009年 02月 19日 02:51:28

 すげー。

 「少なくとも言える事は山下くんが認識している世界は山下くん固有の五感がとらえた世界(現実)でしかなく、対象を必要としない客観的な現実世界などどこにも存在しない」

 そうなんです。それがいいたかったのです。だから、ほんとうの現実(っていい方がすごくおかしいけど)に、瞬間触れられるのは、死ぬ瞬間にしかないのではないかと、「ぼく」が消える瞬間。その一瞬。

 ああでもなぁ。だけど、それは寝る瞬間みたいなものだもので、言葉の上にしかない「瞬間」なのかもなぁ。

山下 @ 2009年 02月 19日 03:20:37

うえええ。

となると、そのほんものの「現実」には「触れられない」のか、それとも「瞬間」は「触れられる」のか。ということすらも、実際にはその時にしか「わからない」ことか。あり得るとして死ぬ「瞬間」なのは、少なくとも「死ぬ」ということ自体は、対象のない「現実」で、というか事実で、「死ぬ」ということだけがそうだから??となると「わたし」の「生まれる」瞬間って??となると、もしかすると、見えていたかもしれない「瞬間」は、ある??そもそもそれは、この世に生まれた時??赤を赤と認識するまで??ぐるーん。

いずれにしても、これはますます、なんて、伝達や表現というものの、全ての手段が、ただの記号でしょうか。正確に表せている、伝えられている、ものなど存在しないはずで。その「いらっ」には秘密は、ある、でしょうね。

ハタノ @ 2009年 02月 19日 07:12:21

お店の照明によって、商品の印象は変化する。スーパーでは、野菜がより新鮮に見えるようにされたり、洋服屋さんでは、お店のコンセプトに合わせて雰囲気を出したり。買って来て包みを開けたら、あれ?こんな色だっけ?ということもあり、それは素材によっても様々で、黒、と言っても、光沢があって他の色が見えたり、マッドだったり、グレーっぽいのや紺色っぽいのもあって、だから、スカートに合わせるものが欲しい時は、それを着ていって、同じ条件で合わせて買うことにしている。
ある色彩の講習会で、四季を色で表現するというテーマがあって、それは、199色の明るさや濃さが様々にある色の中から一人、3色選び、それは、どんな場面でも、イメージだけでもよくて、それを集まった25人で統計してみたところ、とても発見のあるおもしろいものでした。夏は、色は様々でも、はっきりした色の鮮やかなものや入道雲をイメージした白。秋は、暗めの中間色が多かったけれど、色を並べてみると、しっとりとした落ち着いた、秋の景色を連想させる。冬は雪をイメージして白や寒々しいくすんだ水色や、ダークな、もとが赤か青かすら分別がつきにくい色。かとおもいきや、みかんをイメージした鮮やかな橙色や、クリスマスをイメージした鮮やかな赤が少数いた。一番びっくりしたのは、春。並べれば、それは、とてもやさしくて、かわいらしいものでしたが、とにかく選ばれた色、特にピンクと称されるものに統一がない。199色とはいえ、他の季節では、統計すれば、ある程度同じ色を選択されたりするけれど、春のピンクは、人それぞれにあって、薄いものや濃いもの、黄色を含んだサーモンピンクや、少しくすんだ淡いもの。ダントツの色はなかった、けれども、それらはどれもがピンクであるとうなづけるものでした。
自分の中の<ものさし>が人それぞれにあると実感した体験でした。
山下さんの<ものさし>を知りたければ、それは作品に触れることが一番で、それはメンバーの<ものさし>も当然大小融合されていて、それがFICTIONの<ものさし>となる。FICTIONを観て、それをどう受け取るかは、観客の<ものさし>によるもので、それが交わったり、そうでなかったりして、それがまた進行している劇そのものを変化させて、だから、体の奥から何か踊るように沸いてくる高揚は、劇のまさにその瞬間だからこそで、劇であることのおもしろさを本当に味わったのは、過去振り返っても、FICTIONしか私にはないなー。でも、そう思えるものに出会えて私は運が良かったなー、と、しみじみしているし、そう思えた自分の<ものさし>が愛しい。

kiki @ 2009年 02月 19日 11:20:05

ここにある書き込みのどれもがそうであるように、「そのもの」をあるがままに伝えることなんて所詮できないのだ。
自分が感じ取ったこの感覚を相手にどのように伝えようか、、、どんなに言葉を労してみても、どんなにうまく演じて見せても、それは自分が本当に伝えたいことの比喩であったり言い換えであったりに過ぎない。
小説家が、自分が伝えたいことを長い例え話に託すように、、、。
自分の思いをダイレクトに伝える一番よい方法は、、、
たぶん、黙って相手を抱きしめてあげること。

がぶん@@ @ 2009年 02月 19日 14:58:15

ハタノくんへ。
ぐるーん!
人は生まれてしばらくの間、世界と自分の区別がつかない。お母さんのおっぱいを吸いながら、自分と母親の区別もついていない。つまり世界と一体なのだ。それが鏡像時代(生後5ヶ月くらいからか?)を経て、自分と母親は別のものなのだという認識に至る。子猫が初めて鏡を見ると最初びっくりするけどしばらくするとそれが自分らしいということに気付く、、、みたいな話だ。
だから僕も思う。
自我を獲得できていない鏡像時代以前の、世界と一体となっている時にこそ、現実をありのままに受け入れているのではないかと。
もっとも、赤ちゃんなんで、受け入れているという自覚が持てないことが残念です(笑)。

がぶん@@ @ 2009年 02月 19日 15:17:19

突然に分け隔てのない全ての生きている人間の言葉が、だからつまり、抱きしめたい!抱きしめて!に聞こえるような気がしました。わはは。みんながもっと、抱きしめたり抱きしめられたり、できたらいいのに。でも、抱きしめたり抱きしめられたりができない、故に生まれるもの、に触れらているのだとして、それもいいです。がぶんさん、鏡像時代(っていうんですか)以前の世界との一体、すごいですね。なるほど。はい、赤ちゃんなのが残念。となるとやっぱり、消える「瞬間」なのかなあ。

そちら花粉がんばってください。また雪にうまったこちら。

ハタノ @ 2009年 02月 20日 18:25:01

よく考えれば、もともと人は世界そのものと言ってもいい。
だって、地球上の限られた元素の種類や総量は、ときおり降って来る隕石での増量を除けばいつだって同じなわけで、
自然界に散逸している化学成分が妊娠によって収斂されて生命が誕生し、やがて死によって分解され自然界に溶け込んでいく。
生まれたり死んだりする人間は、言ってみれば地球上の物質のリサイクル商品。
これが人の命なわけで、厳密な言い方をすれば、立ち現れては消えてゆく、という一時的な現象。
実際、科学者は「生命現象」と呼んだりするしね。
生まれる前も死んだ後も、いま生きてる人にとっての対象化物質の側に回るだけだ。
だから、皮肉なことに、生きてる間だけは直接世界に触れられない、ということになる(笑)。

で、これは持論だけど、、
死に行く人の意識や認識というのは、永遠に死そのものに到達しない、という風に考えている。
人は死ぬ間際にフラッシュバックで、自分が生きてきた人生を再経験するっていうでしょ。
あれね、イメージとしては映画の超早送りのように、ものすごい速度で場面が次から次へと変わって行く、、という。
死ぬ間際だから、多分数秒間に人生をもう一回、、、みたいな。
それが違うと思うのだ。
「物理的時間」と「意識的時間」の差。
死に行く人は、フラッシュバックをリアルタイムで、つまり一秒は一秒として、80歳で死ぬとしたら、やっぱり意識の上では80年をかけて人生を再経験するのではないかと。
そうすると、フラッシュバックの最後のほうで、やがて死に行く自分に出会い、
そこで再びフラッシュバックを経験する自分がいて、、、、、
ほら、いつまでたっても死にゃしない(笑)。
ただそれを眺めている人が「あ、死んじゃった」というだけだ。

がぶん@@ @ 2009年 02月 21日 00:25:06

死に行く人の意識や認識というのは、永遠に死そのものに到達しない

 というのはすごいなあ。

山下 @ 2009年 02月 21日 01:57:25

さらに言えば、、、
この世で一番自分に無関係なものは、、自らの死だ。

がぶん@@ @ 2009年 02月 21日 03:10:03

 ようやくわかった。「人生短いのだからがんばらなきゃ。すぐ死ぬよっ」といわれても、まったく「ピン」と来ない理由が。だって俺、死ぬと思ってないもん。死ぬけど。

 数日前、低気圧接近による偏頭痛にやられたうえに、昨日今日と花粉で頭が重い痛い。いやだいやだいやだいやだ。

山下 @ 2009年 02月 22日 03:47:31

ちょっと活字が頭に入るようになってきたので覗いてみたら・・・
やっぱりおもしろいお話がつながってますねー!

山下さんの「ほんとうの現実」に触れられるのは、もしかしたら「死ぬ瞬間」かも・・・というのを読んで、同じくうまく言葉にできないままいろいろ考えていたら、「死ぬ瞬間て?」ってことになり、「死ぬ瞬間」を自分は認識するのだろうか、とか、意識が薄れて知覚がなくなっていく状態で、どこで、何を感じるのだろうかなど・・・とめどなく。

で、がぶんさんの言われる、
死に行く人の意識や認識というのは、永遠に死そのものに到達しない。

同感です。
「あ、死んじゃった」
「あ、死んじゃったの私?」みたいなその瞬間はもう「死」は生きている人の問題で、死んじゃった人は終わってる?のか続いている?のか、新しく何かが始まっている?とかは、まぁいろいろ宗教観というか考えがあるのでしょうけれど。

それと、もっとも自分に無関係の「自らの死」を、他の人の手によってしか始末できない人間を「始末におえんやっちゃなぁ」と思います。本当に。どうしましょ。。。

先日、新聞で「無花粉スギ」の栽培の記事を読みましたが、スギが成長するまで30年はかかるので、現在のスギとの混合林になるにはまだまだ時間がかかりそうでした。
暖房で湿度が30%くらいしかないので「加湿空気清浄機」を購入して入荷待ち。今年はこれで喘息は防げるかもと期待しています。

山下さん、お大事に!

なな @ 2009年 02月 22日 06:17:06

僕は宗教を信用していない。
宗教の最大の過ちは心身二元論に立脚しているところ(古っ)。
でも医学がこれほど発達したのも同じ理由っていうのが面白い。
とはいえ医学界は比較的最近その過ちに気付き、心療内科なる心身一元論的部門を作ったから偉い。
人間にとって価値のないものが数千年も続くはずがない、、、と宗教家は言うけど、、、だったら殺人や強姦もたぶん数千年続いてまっせ。
ともあれ、、、。
僕は数年前脳の手術を受けた時に全身麻酔されて、目が覚めた瞬間、、さっき死んじゃってても全然関係ないしそれでもよかったな、、と思ったけど、いま死ぬのはいやだなと思った。

花粉、、どれが花粉なのか気付いたことがないこの幸せ(笑)。

がぶん@@ @ 2009年 02月 22日 08:46:20

おもしろい。おもしろすぎる。生きている世界に永遠に知らないことだらけで。うはあ、死にたくないなあ。

ハタノ @ 2009年 02月 23日 02:00:09

ハタノ君が永遠に生き続けてもたぶん知らないことだらけだと思うよ。
人間にとって今未知のものはやがて知ることができる、、っていう考え方を「約束唯物論」というんだよー。それは、人はすべてのことを知る能力を持っているはずである、という人間原理に基づく都市伝説(笑)で、きわめて非科学的なものに過ぎない。かく言う私は不可知論者。

がぶん@@ @ 2009年 02月 23日 03:30:50

追記
この世に永遠の時間があって、、、
100万歩譲って、あらゆる謎が解明されたとしよう。
でも「永遠」という体系の内部にいる以上、「永遠」そのものの謎が解けることはない。
ゲーデルの第一不完全性定理が数学的にそれを証明している。
自分の首をいくら上に持ち上げてみても、決して宙に浮く事はない、、みたいな感じ(笑)

がぶん@@ @ 2009年 02月 23日 04:08:20

 毎日、パチンコ屋へ行ってるおっさんとは思えない単語がこうして、ことあるごとに飛び出して来るのにびっくりするのと、ほとんどの「何となくこんな感じ」に名前があることにびっくりして、で、いちいち「へぇ。何ていうかいろいろすごいなあ」て思う。

 へぇ。何ていうかいろいろすごいなあ。

 昨日は去年の公演以来の集合日で、人が集まると、とたんに物ごとは複雑化して、得体の知れない方向へ行く、のだという当たり前のことを、久しぶりに実感して、ほぼ引き蘢りのぼくは、久々に「人あたり」をして、ああ劇が始まる、と思った。

山下 @ 2009年 02月 23日 19:25:58

本当にがぶんさんはすごい。謎の人だ。。。

めい @ 2009年 02月 24日 00:22:47

僕の迷言に、、、
「袖すり合うも多少のエントロピー」
というのがあって(笑)。。。
そうやって人が集まれば集まるほど、場のエントロピーは増えて行くのさー。。
山下君はそんなカオスの中にいて、突然F分の1のゆらぎに出くわして、ああ劇が始まる、と思ったのさ。

がぶん@@ @ 2009年 02月 24日 00:39:11

最近のコメントは読めば読むほど、引き込まれる・・
宇宙に浮いてる自分を星屑がスピードだして
通りすぎてく感じ・・

当たったときが『死』で
散ってしまうのかな。。。

kumi @ 2009年 02月 24日 15:14:58

毎日毎日毎日パチンコしながら色々考えてるのさーー。
307分の1の大当たり確率の台をすでに580回転も回してる、、この台が1000回転までに当たる確率はおよそ95%、、逆に言えば、20台に1台は1000回転も当たらない台が出現する、、やっぱりおれ今日のその台に座っているのではなかろうか、、、いやこのまま一生当たらないような気もする、、いやいや根拠はないけど614回転目に当たるような気もなんとなくする、、、いっそ隣に移ろうか、、今日17回も当たってていま105回転、、つまり時短が終わってすぐにやめた台、、で、移った途端この台に誰かが座って、10回転くらいで確変当てちゃうんだきっと、、だからやっぱり移るのやめよう、、とか言ってると、、移ろうと思った台にもうすぐ人が座ってやっぱり10回転くらいで確変当てちゃうんだ、、あー、どうしようもう分かんなーい!、、いっそいますぐ帰ろうか。
、、なんてことをほぼ毎日考えているのだ!
山下くんと同じように。。。

がぶん@@ @ 2009年 02月 25日 03:05:00

 空いてる店と、混んでて1台か2台ぐらいしか空いてない店があるとしたら、ぼくは混んでる方へ向かう。それはもちろん、がぶんさんの書く状態にはまりたくないからで、他に台が空いてなきゃ、何となくあきらめがつく。あの恐ろしいスパイラルにはまり込まなくて済む。ぼくはそうして、自身で自由をいつも手放している。

 はっはっはっ。

 いま、衛星放送で『我が谷は緑なりき』という映画を見た。ちょーよかった。すごくよかった。

山下 @ 2009年 02月 25日 03:32:02

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