イメージ

 独居老人が何日も連絡がとれなくて、ノックをしてもまったく返事がないからと通報を受けて、警察官が部屋に入ったら、口のまわりをまっ赤にした

マルチーズが2匹、うれしそうに警察官に駆け寄ってきて、その奥に、そのマルチーズに少しかじられた老人の死体があった、という話を聞いたことがあって、たまにその話を思い出すのだけど、その話のなかのぼくのイメージのマルチーズは、何だかとてもかわいくて、だから、それから以降、「かわいい」で思い出すイメージが、その話のなかのマルチーズに、いつの間にかなっている。

 昔、住んでいた長屋の裏に老夫婦がいて、その老夫婦は年がら年中口汚くののしりあい、ときには派手な暴力の嵐も吹き荒れていて、しまいにはばあさんが殺されてしまうんじゃないかと心配してたりしたのだけど、たまに外で見る2人はいつも一緒で、それは何だかとても仲睦まじく見えて、だから、「仲良し」という言葉でぼくがイメージするのは、その老夫婦になっている。

 「いやな気分」でイメージするのは、病院裏にまとめて捨てられていた注射器やゴム管で、「サラサラ」でイメージするのは、通学路で見た白骨化したネズミ。「おいしそう」は、植村直己の冒険記のどれかに書かれてあった、アザラシの腹のなかで発酵させた腐った小鳥を食べるところで、「のどが乾いた」は、小学校のとき、夏に、工場見学で行った工場の工場用水の流れる音。

 だから「何だ」という話ではなく、そうなんです、という話。何かに広がるかと思って書き出してみたけど、そうでもなかっただけ。

 リンチの『ツインピークス』の最終回に、ある女が貸金庫に出かけて、いろいろあって、で、その貸金庫のなかには爆弾が仕掛けられていて、結局は爆発してみんな死ぬというシーンがあるのだけど、そのシーンで、金庫番のじいさんが出てくる。それはもうほんとうにじいさんで、歩くのも頼りないほどのじいさんで、そんなじいさんがそんなとこで働いてないでしょう、と、ま、ふつうに考えればそうなのだけど、とにかくそんなじいさんが出てくる。で、見たあとから、それが頭から離れない。

 とりたてて、そのじいさんが何をするわけでもない。来た女に「水ちょーだい」といわれて、よぼよぼと歩いて、水をくんで、また歩いて、女に水を渡して、とか、そんな程度のことしかしないのだけど、リンチはその、ゆっくりよぼよぼと歩くじいさんの動きをはしょることなく、ずっと見せる。何故なのかわからないけど、ずっと見せる。最終回で、広げた風呂敷を畳むのに、無駄なシーン、というか、広げた風呂敷にまったく関係のない、そのときはじめて出てきたじいさんに、そんなに時間をさいてどうすんねん、と、たぶんふつうは思うのだろうけど、でもそれをそこでリンチはえんえんと見せる。何日もかけて、長々と30話近く見続けてきて、「どーなんのどーなんの」と見ているのにもかかわらず、それが来るから、おもしろくて腰が抜けそうになる。

 少し宣伝。4月23日発売の『真夜中』(リトルモア発行)という雑誌に、驚くべきことに、ぼくのエッセイ(タイトルは「ピザ。」)が載ってます。大きな本屋なら置いてると思います。いろんな人が執筆していて、なかなか読み応えのある雑誌です。とかいいつつ、全部を読んだことはないけど。

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登録日:2009年 04月 23日 03:55:41

コメント

新年早々愛犬を失い、3ヶ月以上経ってようやく悲しみから立ち直りつつある
ゆるりです。
うちの亡くなった愛犬もマルチーズでした。
愛犬たちが元気な頃、「もし私が何らかの不慮の事態で自宅で突然死したら、
私の体を食べて飢えをしのいでね」と常々言って聞かせていました。
だからその孤独死した独居老人は本望だったんじゃないかな。
愛する犬たちに食べてもらえて。

ところでツインピークス、一時夢中になって観ていましたが、最終回は覚えてないです。
途中で飽きて観るの辞めちゃったのかな。
Xファイルみたいに・・・(*^-^*)ゞ

そうそう、次回の札幌公演の日程はまだ決まっていないのですね。
飛行機の割引チケットの発売がもうすぐなので、少々焦っているビンボー人の私です。
早く澄人さんのお芝居を生で観たいです。

ゆるり @ 2009年 04月 23日 14:24:25

ゆるりさん少しお元気になられて良かったです。
大阪の天王寺公園でたまにボーッとしていると、見知らぬおっちゃんたちが公園の鳩を見ながら「あれがうまそう、いやこっちのんがうまそう」と討論しているのを聞きます。それがまた一人一人真剣な顔で。なんか幸せそうで。でみんな犬を連れていて。でまた犬たちもその話しを幸せそうに聞いているように見えます。そして私も。食べませんけど。
近所に両の小指が第一関節からないおじいちゃんが居てその孫が「うちのじいちゃん昔指をサメに食べられてん」と何回も教えてくれます...フム。 因みにそこの老夫婦も何度か警察がくるようなケンカをしてます。なのに普段は手を繋いでたりします。小指が絡めないのはご愛敬(笑)。
山下さんのエッセイ早速探します(^.^)。

つくね @ 2009年 04月 23日 15:37:54

 途中で飽きた。確かに。犯人がわかってからが長いですからね、あれ。で、そこからまた風呂敷を広げて、そのままだと畳めないとしか思えない最終回に、あのじいさんに、人の理解を越えた闇の世界の、えんえんと続く描写。だからリンチはすごい。

 あ、それと札幌の日程は間もなく決定します。決まり次第ここに書きます。ごめんなさい。

 天王寺公園は確かにパンチが効いてる。神戸の新開地も。ぼくはそういうところで育ちました。

 今もテレビでやってるけど、くさなぎ君の裸事件。飲んでチンコ出したくらいでかわいそうに。あんなのを見て、それでもまだ有名人になりたい、とかいう人っているのだろうか。

山下 @ 2009年 04月 23日 19:28:41

とりあえず、、
許してやれよー、服はきちんとたたんで置いてあったんだから(笑)

がぶん@@ @ 2009年 04月 23日 23:08:37

で、山下君の話で真っ先に思い出したのが、その昔フォーカスで連載されいて、いきなり連載打ち切りになった藤原新也の「東京漂流」だ。
インダス川で水葬された死体を犬が喰ってる写真を載せて、たしか、「インドではニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というようなコピーをつけたもの。
それがサントリーの広告のパロディーだったものだから、あっという間に圧力がかかり、連載そのものも打ち切り(笑)。というか、えーいやめてやるわい!みたいにして辞めたんだったかな。。。

がぶん@@ @ 2009年 04月 23日 23:32:18

 その写真の話、聞いたことあります。犬に食われる自由。ははは。うちの親父は死ぬ前によく「死んだら鳥葬がええ」といってました。ちなみに鳥葬というのは、死んだ人を山へ連れてって鳥に食べさせる葬式のことです。どこの国のかは忘れたけど。

山下 @ 2009年 04月 24日 02:36:36

小学校6年生くらいの時に映画、ヤコメッティの「世界残酷物語」で初めて鳥葬(エチオピア)を見てものすごいショックを受けた記憶がある。たぶんそれが初めて日本に流れた鳥葬の動画だったんだろうね。それと、残酷な場面の連続と、その背景に流れる「モア」の美しいテーマ音楽のギャップがものすごく鮮烈だった印象がある。その後同じような映画が何度も公開されたけど、必ずと言ってよいほどテーマ音楽は美しい旋律、、ってのが笑える。

がぶん@@ @ 2009年 04月 24日 18:40:01

 ぼくあれで見ました。昔、テレビでやってた『驚異の世界』か『知られざる世界』。『世界残酷物語』もテレビで見た記憶があります。ということは、昔はテレビでなかなかのものを流してたということですね。

山下 @ 2009年 04月 25日 03:23:18

なかなかですよ、、
力道山が活躍したプロレス、最初はNHKですもん。

がぶん@@ @ 2009年 04月 25日 16:23:38

イメージするソレとは。
僕の親友の高井君は定年退職するまでずっと小学校の教諭をやっていたのだが、教諭生活のほとんどは「ことばの教室」、言い方は変わったが、差別的な意味合いを含む昔の言い方でいうと「特殊学級」、いわゆる知的障害を持った子供たちばかりが集まったクラスを受け持っていた。ダウン症の子供もいれば自閉症の子供もいる。そして、一番苦労したのは自閉症の子供だったそうだ。
話は変わるが、例えば上の記事で散々出て来た「犬」をイメージして、その「犬」について語り合うことを想像してみよう。
みなそれぞれに「犬」を頭に思い浮かべるだろうが、その犬はもちろん人それぞれ、おそらく自分の見知った犬のどれかなわけで、皆が皆同じ犬を思い浮かべるわけではない。
でも共通するのは猫じゃなくて犬だということ。そうして皆に思い浮かべられて語られる抽象的な「犬」を、難しい言い方をすれば「超越論的間主観性としての犬」ということになる。つまり、それぞれの主観と主観の間に超越的に思い浮かべられている犬ということだ。
哲学では昔、普遍戦争というのがあって、その漠然とイメージされる共通の犬なんて存在しない。存在するのは「AがイメージしたAが飼っている柴犬」であり「Bがイメージした近所の八百屋のポメラニアン」といった個別の犬たちである。その立場を唯名論。一方、いや普遍的なイメージとしての犬は類として犬でありちゃんと存在する。それを実在論。その二項対立であった。
で、話は最初に戻る。
高井君はその自閉症の生徒に目の前にあるコップを差し出し、それをコップだと教える。教えてもすぐに忘れてしまうので毎日同じように教える。すると一週間くらいでやっと彼はそれをコップと認識し、それは何かと尋ねれば「コップ」と答える。そこで、そのコップを彼に渡し、絵柄の違うもうひとつのコップを取り出し、これはなんだろうか?と尋ねる。でも彼は分からない。彼は、さっき手渡されたものがコップだったのだから、いま目の前にあるものがコップであるはずがないと考えるのだ。つまり彼は「類」というものをイメージする力がないのである。赤いコップ、青いコップ、白いコップ、、、という風に個別に違う物として覚えることはできるかもしれないが、みんなまとめてコップ! ということをいくら説明してもついに理解できなかったという。
ちなみにその彼は教室の入り口の引き戸を、毎日毎日引かずに押して入ろうとして必ず中から誰かに開けてもらっていたという。それは卒業まで変らなかったそうだ。

がぶん@@ @ 2009年 04月 27日 05:49:34

 ぼくは子供の頃、芸能人のピーターを「ピーターには男のピーターと女のピーターがいる」と思い込んでいて、コントやなんかで芸人と男言葉でしゃべっている「男のピーター」と、女性のような仕草で歌う「女のピーター」が同一人物だとなかなか理解出来ませんでした。

 ところで今日テレビで「天才脳外科医」のドキュメンタリーを見ていて思ったのですが、あんなもの、人体の勉強だけして医師免許取っただけじゃ誰にも出来ない仕事で、むしろ宮大工とか建具師とか極小刺繍師(そんな職業があるかどうか知らないけど)とかそういう、手先がどれだけ器用か部門を設けて、そのうえで国家試験をするべきじゃないのかと思いました。あれ、ぼくが医者なら「あ、しもたー」を繰り返します。

山下 @ 2009年 04月 29日 04:22:04

その番組途中から見ました。癒着している血管を傷つけないように、どんどん腫瘍が切り離されて摘出されていく様は、気持ちが悪いというより、その医師のしゃべりながらのあまりの手際の良さに、最後まで見入ってしまいました。結構頑張れば、できちゃうのかもー、と錯覚に陥るほどの巧みさ。あの医師に見てもらいたい人は、何千人といるのかもしれないけれど、それでもその技術は一部の人にしか施すことができなくて、しかも、その神業と言われる技術は、己には永遠にできない。それでも日々年老いていく医師は、自分を最後の望みとすがる患者や家族に出来る限り応えていく。その医師が完全であるはずはないけれど、これを見た未来の医師たちの芯に、何か残ればいいなーと思った。
あの医師に限らず、どういう芯を持った人のそばで学べるかの意味はきっと大きい。

kiki @ 2009年 04月 30日 15:08:36

そろそろ話も尽きて来て、、、ねぇ、山下君(笑)。
その人医者やめても米粒にいっぱい文字書けそうだ。
で、たぶんだけどその医者ってけっこう歳の人でしょ?60代くらいの。
実際に脳腫瘍手術を受けたがぶん@@ですが、担当の70代のおお先生が言ってました。
「脳外科医は45歳くらいが限界なんです。一番アブラが乗り切るのは35〜42、3歳くらいですかね。それ以下だと未熟だし、それ以上だともう目がダメ手先がダメ」
ちなみに、その70代のおお先生ってのは診察専門、数年前まで日本脳神経外科学会の会長をつとめた人でしたけど、実際にぼくを手術したのはアブラの乗り切った44歳の先生でしたけど、失敗こいて再手術とえらい目に遭いました(笑)。

がぶん@@ @ 2009年 05月 01日 04:12:43

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