いのち大切に
【5月25日 AFP】新型インフルエンザの予防にマスクの売り上げが急増し、店頭では売り切れも続出するなか、各自治体やインターネット上ではブロガーたちが「手作りマスク」のアイデアをいろいろ紹介している。
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(c)AFP
こないだ、電車のドア近くに乗ってるときに、目の前で野球帽をかぶった小さなじいさんが本を読んでて(ちなみにその本は第二次世界大戦について書かれたもので、ていうかそれはまあどうでもいいのだけど)、そのじいさんの
うしろのドアには、何か、ドリンク剤の宣伝のステッカーが貼られてて、そのじいさんと、ステッカーと、ドアにうっすらうつっている自分の姿を、ぼんやり交互に見てたら、突然何故か、もしかしたら「いのち」なんてものは、ほんとうは、何よりも特別で大事な「もの」なんかではないのかもしれないなあ、と思った。
もちろん、もちろん「いのち」はなきゃ困る。というか、大事。というか、何故大事で困るかということを考えるのもむつかしい領域で「困るし大事」というか、なのだけど、だけどもしかしたら、「いのち」についての考察はそれだけでじゅうぶんで、そこにそれ以上の過剰な意味付けなんか必要なくて、なのにぼくらは必要以上に「いのちは大事。何よりも大事」とか、それの発展系の「ひとりのいのちは地球より重い」なんていうインチキくさい理屈まで叩き込まれていて(ひとりのいのちを助けるために地球を壊すとかいう人が出てきたらすぐにわかる。その考え方のインチキが。)、だから何だかときどき面倒くさいことになってしまっているのじゃないか。死んでもいい、とか思っているわけではもちろんないし、できることなら生きていたいし、生きてるものには生きててほしいけど、その気持ちに、それ以上、意味をつけなくていいんじゃないか。
とまあ、何だかこむつかしいことを書いているけど、ようするに何を思ったかというと、じいさんとステッカーとドアにうつっている自分が「すべて同等」に見えて、そう見えたことが、何だかすごくびっくりでおもしろくて、で、それは「何目線」なのだろうかと考えたら、思いついたのが「宇宙人目線」で、遠い星から来た宇宙人には、もしかしたらそんな風に見えるんじゃないか、と思い、その目線はなかなかおもしろいぞ、と思ったわけで、ていうか、思っただけ。
だけどそう思ってから目に飛び込んでくるすべてのものの奇妙なことといったらなくて、人のかたち、人の顔のかたち、建物のかたち、犬のかたち、自分の手のかたち、足のかたち、着ているもののかたちと色、声、とかとにかく、ありとあらゆるものが「変」で、よくこんな「変」なものを「普通」と感じて生活しているものだ自分よ、と思ったけど、2時間後にはすべては「普通」に戻っていたから、おかしないい方だけど、ぼくらはすごい。
3日ほど前、去年から、ほぼ1年、横着をして進みあぐねている仕事の、月に1度の恒例の打ち合わせを渋谷のおしゃれなカフェでした。相手の方も、少し、このぼくの進まなさ具合に、おそろしいことになれてきたのか、何も進んでないことを怒るでもなく、昔からの友達みたいに楽しく会話をはずませてくれて、ぼくはすごく楽しくて、だから調子に乗って「いっそのこと最初からまた書き直してみよーかなー。もう1年くらいかけて。なんか飽きてきたしー。へへへ」と、口走ったら、さすがに相手の方は友達じゃない「仕事の人」の顔になって「そこはまず今書いているものを書き上げてから、あらためて考えた方がよろしいのではないでしょうか」と、とても静かに穏やかに、小さく眉間にシワをよせたから、やっぱりこれは遊びではなく、すごくゆるくて楽しくて、ほぼ遊びに近いけど、それでもやっぱりそこは、仕事、なのだと思った。
そろそろ次回公演のタイトルの締め切りが迫っている。なのに何も浮かんでない。なのにチラシの絵とかは描いたりしている。進んでないけど、進んでもいる。でも、どちらかというと、進んでない。
と、書いて5日。あれから思いのほか進んでたりするから、時間というのはすごい。時間はえらい。
タイトルも間もなく決まる。2個ある候補のうち、どちらにしようか、けっこうバカみたいに毎日考えている。3年もたてば「えーと?3年?前の?劇の?題?何やったっけ」と絶対忘れてしまうくせに。
札幌のワークショップに参加した人から、香水のにおいのする便せんで手紙がきた。そういう「もの」があるとぼくは知らなかったから、封筒をあけた瞬間「えっ。何のにおい?」と、一瞬あせった。手紙をくれた人ありがとう。
で、マスク。こういうときこそ「どうせ感染しても寝てりゃ治るのでしょ。ていうかだいたいインフルなんか毎年のことでしょ。むしろそちらのインフルの方がきついっていうじゃない。小さな風邪をひいても死ぬ重病人ならいざ知らず、テレビに踊らされてバカみたいにマスクマスクってバカじゃないの」と、そうやって世の中の流れにいちいち反逆する、そういう若干面倒くさい人が、ぼくは大好き。
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登録日:2009年 05月 25日 19:36:34
コメント
バイト先で先週の金曜日からスタッフ全員マスク着用をしています。
過剰だとか働くのに邪魔とか暑いとか色々あります。
が、何よりも
ファッション業界のお店で全員がマスクをしている“絵”がとてもおかしくて。
(不謹慎ですみません)
その“絵”に自動的に参加させられている自分もおかしくて。
そのうち「あの時大騒ぎしたよね」なんてわいのわいのと出来る平和な日が迎えられるといいですね。
マスクに反応してついコメントしました。。。
タモリ見つけた人(鈴音) @ 2009年 05月 25日 21:21:57
命ね、、、
「死後の世界」は確実にあるよ、、但しお前の、、じゃないけど。
がぶん@@ @ 2009年 05月 25日 23:48:52
あ、今日思った。
マスクして咳している人で一番イヤな感じの人は、、、寿司職人だなって。
がぶん@@ @ 2009年 05月 25日 23:51:53
「「死後の世界」は確実にあるよ、、但しお前の、、じゃないけど。」
わはははははは。ほんまやー
山下 @ 2009年 05月 26日 01:01:25
で、あ、え?「タモリをみつけた人」って「タモリを見つけた人」じゃないですか。サイトも見ました。どーも。そのせつは楽しかったねー。
山下 @ 2009年 05月 26日 01:10:15
最近のマスクは、これまでと違って、健康な人がつけている。あんなマスク一つで防げるのか?と思いつつ、何だか急に寒くなった今朝、のどがほんのちょっと痛かった。これは違う、違う、うがい、うがい。薄着で、のど元が冷えたせい。温めたら落ち着いた。
たとえばスーパーで、店内に品出しする人がマスクをつけているのはいいとして、というより生鮮食品なら逆にして欲しいけれど、ズラッと並ぶレジ係もみんなつけているのは異様な光景で、なんだか会計するこちら側が緊張する。
電車に乗ったりする時は、マスクはやっぱり具合が悪い人がつける、とすり込まれているせいで、なぜかマスクの人から病気が移りそうな感じがして、席をよけたりしてしまう。
死んだことが無いから、死ぬことが自分にとってどうであるかは全く未知の世界で、それは、想像できないから、正直まだ怖くはない。それより、死ぬに至る過程の方が、現実的で、風邪で具合が悪くなって、熱でモウロウとしたり、体がだるくなったり、気持ち悪くなったり、鼻水やセキが止まらない辛さなら知っているから、ただただそういう辛さは味わいたくなくて、その先に死があるのだとしたら、やっぱりそれは、死にたくない、と思う。生まれる前と、死んだ後は、同じ世界なのだろうか。
kiki @ 2009年 05月 26日 02:03:45
死んだことがないからと、、、心ではそう思っていても、
実際のところ肉体のほうは何回も死んでいるのだ。
なぜなら、およそ8年で脳を除くすべての細胞が死んで生まれ変わっているからだ。
80年生きれば10回ほども肉体は死んでまた生まれていることになる。
だから肉体は心の乗り物と言ってもいいんじゃないかと思う。
そしてその肉体はまた、ほぼウイルスと細菌、もっと言えば遺伝子の乗り物と言っていい、、、、、。
そこで、突然ですが「宿便」って都市伝説だって知ってた?(笑)。
水だけを何日も飲み続けてもウンコは出る!
それが「宿便」だと断食道場では教えるけど、、それは宣伝文句に過ぎず、真っ赤なウソ。
出たウンコから水分抜いて残ったブツのおよそ半分は体内に住む細菌の死骸。
そして残りの半分のほとんどは新陳代謝による腸壁の老廃物。
それと僅かな滞留便、それがウンコに見える。
、、で何が言いたいのかというと、、、、、。
人間ひとりの細胞の数はおよそ20兆個。
それに対して、体内で生きている300種類以上にもおよぶ細菌の数はおよそ100兆個。
およそ5倍の数、重さにして1〜1.5キロは細菌。
だから、あなたの生死はあなただけの生死では全然ないということ。
結論。
生命体の生と死を司っているのは神ではなく利己的遺伝子であるらしい(笑)。
がぶん@@ @ 2009年 05月 26日 03:27:52
ぼくは交通事故で意識不明になったことがあり、打ち所が悪けりゃ死んでてもおかしくなかったわけで、とすれば、「死ぬのがいや」も何も、「う」も「す」もない、という気もします。
生まれる前と死んだあとの世界なんて、はっきりいってぼくは知ったこっちゃないですが、ぼくが生まれる前もぼくが死んだあとも、地球はしずしずと自転し、あいもかわらず太陽のまわりを回っているだろうということは間違いがないので、そう思うと、とても「ほっ」とします。
山下 @ 2009年 05月 26日 03:29:46
小さい頃から私は死ぬことがずっと怖くて、それこそ小さい時は怖くなってはおとんだかおかんだかに「死ぬの怖いよ~」なんて抱きついて泣いたりしてました。
前に黒澤明の本の「生きる」に関する文章の中で、「生きたいという願望が強い人間ほど死が恐怖である」みたいな言葉を読んで、すごくストンと心の中に落ちました。納得したというのか理由がわかったというのか。
あとこれまた余談ですが、寝る時にベッドに入るとなんで死ぬことをよく考えてしまうんだろうとずっと思っていたら、誰かが、美輪さんが言っていた言葉で「土(地面)に一番近いから、らしいよ。」と言っていて、これまた納得したのでした。
イヤフォンの女 @ 2009年 05月 26日 03:42:57
「生きたいという願望が強い人間ほど死が恐怖である」
これはたぶん
「マスクなんかして慎重にしてるやつに限って新型ウイルスに感染する」
に通じると勝手に思います(笑)。
命ってのは地球の重力に支配されてるんだよ。
だから命を落とす、命拾い、、っていうのだ。
がぶん@@ @ 2009年 05月 26日 04:12:07
昔、うちの近所に住んでたエイジの弟のタケシは誰よりも車をこわがっていたのに、同じ場所で3度も車にひかれて、これはやばいとタケシのお母さんがタケシをお祓いに連れて行ったのにもかかわらず、その翌週、タケシは、また同じところでひかれました。だからみんなは「タケシは車がこわいんじゃなくて、むしろ好きなのだ。ていうか、車がタケシを好きなのだ」とうわさしてました。
山下 @ 2009年 05月 26日 04:36:41
>実際のところ肉体のほうは何回も死んでいるのだ。
>ぼくが生まれる前もぼくが死んだあとも、地球はしずしずと自転し、あいもかわらず太陽のまわりを回っているだろう
>マスクなんかして慎重にしてるやつに限って新型ウイルスに感染する
そういう風にどこかで思えているところがあって、だから、生まれることも、人として死ぬことも、流れの一部で、とても自然なことだと思えて、そうなる時はそうなる、とどこか冷めていて…いや、というより、やっぱりどっか自分にある未知への不安が、大丈夫、大丈夫、全然怖いことじゃない、って思おうとしているのかもしれなくて…
新しく出会えた人も参加して、みんなでこんな風に思い思いのことを語ることに、なんだかやっぱりどこかで安心している自分を感じて、よくわからないけれどなんかドキドキしている自分がいる。
山下さんが言ってた。「人殺しは、人の命を軽く見てるんじゃない、重きを感じているからするんだ」って。なんかそんな感じのことだった。あれ心に残ってる。
kiki @ 2009年 05月 26日 10:46:13
あ、『タモリ見つけた人』(笑)
なんていうか、座っている感じ、なんともいえない表情、じゃべり方。全くそのものであって、それ以外には見えませんでした。この人ナニモノーーーって(笑)
あまりにも自然といたことに、その景色が見えるようでした。
なんだか楽しそうな活動されているんですね。晴れたら晴れたで、雨なら雨で。そんな流れにまかせられることに、少し心が躍りました。
kiki @ 2009年 05月 26日 10:59:15
がぶんさん〉そんな意味があったのですね。これまたすごく納得しました。ありがとうございます。
……
またも昨夜録画していた清志郎の追悼番組を観ながら思ったことなのですが、そして不謹慎なのかもしれないですが。
ワイドショーでも観て追悼番組でも観た竹中直人さんがお別れの手紙を読むところ。大竹しのぶさんだと思わなかったのに、涙で顔をくしゃくしゃにさせながら嗚咽混じりで手を震わせながら手紙を読む竹中直人さんが、なぜか時々私にはまるで映画のワンシーンに見えて仕方なかったです。そして役者・竹中直人に私は詳しい訳ではないけれどそして演技ではないから当たり前なのだけれど、そこで大きな悲しみの中に居る竹中直人さんは、どの役者・竹中直人よりも私には辛さも悲しみもすごく強く伝わってきて、結局リアルに勝る演技なんて芝居なんて(ましてそれが‘死’に直面した時なんて)ないんだなぁと思いました。
イヤフォンの女 @ 2009年 05月 26日 18:26:50
>山下さま
そのせつは、ありがとうございました。WSとてもとてもとても楽しかったです!
サイト見てくださってありがとうございます。
>kikiさま
いやはや、素は・・・天然ボケの人です(笑)
WS、改めてお疲れ様でした!
いのちあって、WSで皆様に出会えたんだよなぁと改めて思ったりして。
またお会いしましょうね。
タモリを見つけた人 @ 2009年 05月 26日 23:10:57
「悲しい、泣かずにはいられない、、、??、、でも、僕はいまうまく泣けているだろうか?」
僕が竹中直人だったら、泣きながらそんなふうに考えてると思うけどな。。
がぶん@@ @ 2009年 05月 27日 03:26:44
ぼくは「リアル(たぶん「ほんとう」もしくは「堅実」という意味でのリアルだと思うのですが)に勝る演技はない」とは思いません。むしろ「ほんとう」もしくは「現実」を越えるときがあるのが「演技」というか、「劇」というか、もっと大げさにいうなら「芸術」なのじゃないかと考えています。
山下 @ 2009年 05月 27日 03:47:32
シュールリアリズムって「なんかよく分かんない」みたいな使い方をされることがあるけどど、そうじゃなくて、本来、山下君が言っているようなことに使われるべき言葉であって、、、。リアルそのものがリアルに見えるとは限らない。リアルそのものではない表現が、時にはそのものを超えるリアリティを生み出すことがある、、、というような意味だと思う。
役者には、なにがリアルで何が演技か、その境目が分からなくなっていると思う。常に自分を客観視する癖がついている、悲しいかなそれが役者の性で、またそれなくしていい役者にはなれないのではないかと思う。いい役者の山下君はどう思う?(笑)。
がぶん@@ @ 2009年 05月 27日 09:54:22
まずあれですよね。たくさんの参列者の前で花にかこまれた遺影にむかって語りかける、あの「弔辞」というのが、よく考えりゃ、誰向け?みたいなとこありますよね。いちおう前提として語りかけているのは「死んだ人」なのだけど、「死んだ人」にならみんなの前でやることもないし、ていうか、声すら出す必要も無い。なのにやる、ということは、そこに参列している人(観客)に向けているということになり、だからそのじてんで、もうそれは、ぼくの大嫌いな意味での「演劇的」な行為というか。だからそれが「芝居くさく」見えるのは当たり前で、ていうかだってあれ、芝居ですよね。それもくさーい。
で、「役者には、なにがリアルで何が演技か、その境目が分からなくなっていると思う」について、いい役者の山下が、お答えします(笑)。
がぶんさん、それはそんなことはないです。少なくともぼくは。いついかなるときも、ぼくであり、役と自分、現実の行為と演技を混同してしまうことなんかないですね。
それから「常に自分を客観視する癖がついている、悲しいかなそれが役者の性で、またそれなくしていい役者にはなれないのではないかと思う。」なのですが、それも、役者なんかじゃない人と同じで、ときと場合によるのではないでしょうか。「友達の、よく知ってはいるけどそんなに密接な関係があったわけではない奥さん」とかの葬式なら、ある程度の客観性というか、「ここもうちょっと下向いて悲しそうにしとく?」みたいなことはありますが、もっと距離の近い、自分の奥さんとかとなれば、そんな客観性なんて、当たり前ですが、たぶん吹っ飛んでしまう。
山下 @ 2009年 05月 27日 16:31:56
少し訂正、というか補足。
「もっと距離の近い、自分の奥さんとかとなれば、」というのは、ようするに、猫でも、インコでも、突然消えた片足でもいいのです。関西ではそういう状態を「ウロが来る」といいますが、「ウロ」が来たら客観もくそもありません。で、ぼくはよく「ウロ」が来ます。
それと、もしかしたら「いい役者」という概念も、気がついたら少しずつ変化していて、ぼくの考えには、そういうものも影響しているのかもしれません。
ていうかいやあ、こういうことって書き出すときりがないなあ。
山下 @ 2009年 05月 27日 19:56:56
昨日ちょうど、思ったことがありました。がぶん@@さんが書いてくださった…
>リアルそのものがリアルに見えるとは限らない。
これに近いものを実感してました。
歩んできた記憶を辿っても、ワークショップは衝撃的な日々で、10日ほどたって、やっと頭の中が整理されてきて、他のことが考えられるようになってきて、またそのこと事態にも更にびっくりの後日だったのですが、冷静になれた今、自分の書いた感想を読み直してみました。
びっくりしました。もうもう5日目の最後なんて、どれだけ酔ってるんだ(笑)って感じで、ちょっと自分で寒かった(笑) でもあれらを毎日寝る前に興奮状態で吐き出していたのは本当で、至極まじめにあの時はあるがままを載せていた、つもりだった。きっと、今書いたら、もっと冷静な文体になると思う。興奮状態のリアルな感想は、冷静な目になってから読むと、くさい。
だから、もしかしたら、うそくさー、そんなにほめなくたってーー。って、思われているかもしれないけれど、あれはウソじゃないリアルな感想。だって、山下澄人のワークショップはすごいんだもん(笑)
イヤフォンの女さん、ありがとう。
あなたの投げかけた言葉によって、がぶん@@さんを介して、きっぱり答えるいい役者・山下さんのお答えに *うっとりぃ* できましたー、こんな機会は最近貴重ー貴重ー(*^_^*) かっこいー♪
思ったことを率直に書けば、それから発展して、色々なコトバが飛んでくる。それも思いもよらない角度だったりして楽しい。自分が感じたことはどうであろうと宝です。宝が増えればまた考え方も違ってくる。色々経験して、感じて、考える、って楽しいねー☆
「ウロ」??? うろたえる???
kiki @ 2009年 05月 27日 20:20:44
そうかー、いい役者山下、、ウロっちゃう君ってけっこうかわいい(笑)。
で、ほんと山下君のいうとーり!
いっそ、、、
「続きまして、竹中直人様による一人芝居『弔辞』をお願いいたします」
とでも紹介してくれればいいのに。
それと、リアルについての話、、、、、。
よく安っぽいサスペンスドラマで、ま、火曜サスペンス劇場?、、最後に絶壁の上から犯人が海に落ちて行くみたいなシーンがある。
そのとき「なんだよアレ、骨抜き人形なの見え見えじゃん、手足だら〜んとさせてとても生きている人間には見えない、、」
と思うようなことがある。
一方、映画なんかだと、悪役が高いところから落ちて行く様を上から写して、落ちて行く人間が目を向き手足をバタバタさせながら、いかにもリアルに落ちているような表現になっている。
うん、やっぱりそれくらいの表現にしなきゃリアリティが出ない、、とそう思っていた、、のだけれど、、、。
別の機会に世界衝撃映像とかで、高層ビルから人が落ちて行く様が映されると、、なんと火曜サスペンス落ち!、じゃないか!
そうなんだね、、人はまるで骨抜き人形のように落ちて行く。
たいていの人間は落ち始めてすぐに失神しちゃってあとはただだら〜と落ちるのがリアルな落下だということもあとで知った。
この場合、僕にとって手足ばたつかせる方がシュールだということになる。その方が事実よりも事実に見えるから。
そうか火曜サスペンスそこまで考えて人形落としてたのか(笑)、、ちがうか!
がぶん@@ @ 2009年 05月 27日 21:09:56
追加。。
>少なくともぼくは。いついかなるときも、ぼくであり、、、、
でもさ、ウロが来た時はぼくでなくなっちゃうからウロなんじゃないだろうか?
もしいつでもぼくという自覚があるとすれば、ウロ中も、ウロってる自分を俯瞰している客観的なぼくが別にいるわけで、、、、。
ん〜、そんな冷徹なやついないか(笑)。
がぶん@@ @ 2009年 05月 27日 21:17:24
気付かぬうちに沢山書き込みがされていましたね。
自分の考えを貫けよ、っていう感じで申し訳ないのですが、山下さんやがぶんさんの言葉を読んで、現実でなくても、思えば、ある舞台だったり映画だったり、心を大きく揺さぶられる作品や役者さんは確かにいて。
なんでしょう。うまく言えないんですが、そして何度も重ねて書いてあれなのですが、あの‘竹中直人’さんが、私が知ってる決して多くはない竹中直人さんの(役者)姿の中で一番、ああ、ほんとの姿だ、って思ったんです。もちろん現実の中で彼は涙してるから当たり前なんですけど。そして同時にそれが芝居に見えて仕方なかった理由もみなさんの言葉を読んで、そうかと思いました。
自分の考えや意見の浅さや甘さに凹みますが(笑)、ここで色んなお話ができてなんだかすごく面白いです。ありがとうございます。
イヤフォンの女 @ 2009年 05月 27日 22:09:17
「少なくともぼくは。いついかなるときも、ぼくであり、、、、」
あ、や、もちろん「ぼくという自覚」すらない、という意味での「ぼく」で、だから「ウロ」の来ているときの「ぼく」は「高田さーん」と呼ばれても「は、はい」とこたえたことがあります。
「自分の考えや意見の浅さや甘さに凹みますが(笑)」
わはははは。がんばれ
久しぶりに長時間椅子に座って台本を書いたり書かなかったりしたから、すごく疲れて座ってた時間以上の時間、寝てました。
山下 @ 2009年 05月 27日 22:35:42
>一番、ああ、ほんとの姿だ、って思ったんです。
それって、あのワークショップそのものに感じる。
もちろん、アレは全てフィクションだけど、けどあえてやり直すことなく一発勝負だった発表会は、いい緊張を保つためだけではなく、山下さんはリアルをフリーハンドのように混ぜ描きたかったのだと私は思っています。だから、アレは〈フィクション〉であり〈リアル〉だった。そのよくわからない混ぜこぜが、決まっていた流れから外れた時に、想定される〈おかしい〉を超えていた…あんまり書くとまた叱られる(笑) けど、これは私の中では結構大きい発見でした。
それを劇にした時、観客はどうしたら、外れた…と思えるのか。
ホントかホントじゃないかなんて全く関係なくて、今のイヤフォンの女さんには、そう見えた。そういうことだと思います。だから、つまり、間違ってなんか無いと思います(*^_^*)
わはははは。がんばれ 私もがんばる(笑)
kiki @ 2009年 05月 27日 23:12:35
こんばんわ、ぼくです。
こんなに興味深いお話がここでは展開されていたんですね!
すごいおもしろいです。これからも読ませて頂きます。
いのちについてぼくが最近おもうことは、人間はみな駒なんじゃないかってことと、
きよしろーがしんだときああ死んだか、ってちょっと空をなぜか見上げたことです。
ぼくにはまちを歩いている人が駒にしか見えない、想像力の欠落と言われればそれまでかもしれないけど、でもほとんどの人が電車で隣に座っている人のことなんてどうでもいいと思っているように感じます。それはいいことなのかな?悪いことなのかな?だから戦争はなくならないのかな?という疑問がひとつ。あときよしろーがしんだときは、どうかぼくを見守ってくださいって、おじいちゃんにもやったことないのに祈っちゃいました。死んでも人の心に生き続けるってそういうことなのかな?て最近考えてます。意見の丸投げですごめんなさい。
ぼく @ 2009年 05月 28日 01:08:34
>人間はみな駒なんじゃないかって、、、、
そんなことはありません。
「人間」と書いて何と読む?
「ニンゲン!」
「はい違います、『ジンカン』と読むんだよ」
つまり、人と人との関係性があってこそひとりの人間として成立する。人はそういった社会的動物なんだという教え(笑)らしい。
それぞれの人が独立した単なる駒だとしたら、そこに関係性は生まれないし社会が構成されることはないからね。
意見の丸受け止めですごめんなさい。
がぶん@@ @ 2009年 05月 28日 01:52:31
昨日、とあるお店で相席になって、とあるきっかけで、気づけば小一時間お喋りした彫刻家さん(名古屋からいらしてました)にも初対面なのにえらい熱く語ってしまった話なのですが。
松山に生まれ大阪で大学時代を含め8年暮らして7年前から上京した私が上京してしばらくして思ったのは、人が多いことは人を(感覚を)狂わせるんだなぁってことでした。
例えば、あまりにも人が多くて、だから人とぶつかりやすくて、だからそうすると沢山謝らないといけなくて、でも上京してしばらくした私はそれが当たり前になりすぎて謝らなくなっちゃって、それに気づいて「こりゃいかん」て思い直し、誰かとぶつかればその度にちゃんと謝るようまたなりました。
東京に来て人身事故の多さに驚きました。そして人身事故が起きて混んだ車内にそのアナウンスが流れて、誰かが舌打ちした時の、ゾッとする気持ちを初めて知りました。
清志郎〉全然詳しくはないし役者さんとしての方が私には印象強く、そしてその人柄が素敵だなぁと想うアーティストでしたが、亡くなったことを知った時なぜかどうしてもなかなか信じられませんでした。
山下さん〉はい。がんばります!
ここらで本名へ‘イヤフォンの女’こと‘モモチ’です。 @ 2009年 05月 28日 02:37:43
人間は駒論。
ぼくはそれすごくよくわかる。だけどやっぱり人間が駒なわけがないということを、ある瞬間、いやというほど、というか、劇的に思い知ることがあって、椅子から転げ落ちるぐらい笑えるのは、駒でなくなった「人」のことだったりするから、面倒くさいけど、かなり面倒くさいけど、やっぱり人は「駒」ではない、と思うことにしている。
山下 @ 2009年 05月 28日 02:56:42
話は続くよどこまでも(笑)。
人が駒に見えているうちはまだよい。
たとえば自分の母親が母親に見えなくて、母親ってなんだっけ?、その関係性も掴めなくなったりして、彼女の姿形は母親とそっくりだけど、ほんとは別の人なんじゃないか?みたいなことを感じ始めたらアブナイ。その思いが自分自身にも及んだ場合、外を歩いていて自分自身を見てしまうというドッペルゲンガーを体験しちゃったりするんです。それらの現象というか症状を称してカプグラ症候群と言うのだ。ちなみに、まさにこれをテーマにした映画「ブロークン」いまツタヤで新作であります。
で、その偽物感覚の対象は人だけではなく環境そのものにも及ぶことがあって、実際の症例では、長野の松本市(たぶん)に住んでいる人が、「この町はいつもの町とそっくりだけど、実は新潟県のある所に松本市そっくりに作られた偽の風景なのだ」と言い張ったという。
このこととたぶん密接に関係していることだけれど、、
上の名古屋の彫刻家のオジサンには心理学でいうゲジュタルト崩壊が軽く起きているのだと思われる。人がある固定的環境(見知った周りの人間関係や風景町並み)で育っていった場合、それらの関係性の中に身をおくことで自分のアイデンティティが形成されていくわけで、それがいっきに変った場合、そのアイデンティティが否定され保てなくなってしまうという状態が起きる。それが快く起きた場合には「♪知らない町を歩いてみたい♪」みたいな、なんか落ち着かない爽快感にもなるわけだけど、病的に起きた場合にはそれは悲惨なことになる。年寄りならいっきにボケたりするんだし(笑)。
がぶん@@ @ 2009年 05月 28日 04:34:23
あ、The宇宙人s の「ぼく」だー♪
すごく自然に入ってきて、びっくりしたー(笑)ライブ行くからねー(*^_^*) ひとりで(笑)
詳細知りたい方は、FICTION WEB の制作子日記へ…☆
さすがに自分でイヤフォンの女と言い続けるのは違和感あるよね(笑)モモチさん、はじめましてー。でもずっとあなたはイヤフォンの女です(笑)
人が駒…新百合ヶ丘の駅から歩いていくと、その辺を歩いている人たちは全くの他人で、特に何も感じたりしなくて、それは書かれている駒のようで、でも駒とも感じないナニモノでもなかった。ワークショップの会場へ行くと、どの人も知らないのに、でも同じ山下澄人という目的を含んだ人たちというだけで、なんとなく安心感や愛しさを感じた。それは日に日に。
山下さんが、電車の中での、知っている人、知らない人、との自分との密接度、について話していたこと(知らない人なら密着度が高くても気にならない…みたいな)…あれ、思い出しました。そうそう、だから、私は、特にちょっとだけ知っている男性とは一緒に電車に乗るのが気まづくて苦手。でも、半袖時期に、知らない人と生腕が密接するのは、もっといやーー(>_<) だから、半袖はあまり着ない。
母が死んだ時、その瞬間には立ち会えなくて、姉と泊りがけの交代で家に帰ってから、その知らせを聞いて、タクシーで向かう途中、夜の11時過ぎだったことで、外も人通り無く、シン、とした感じで、あー、これからさっきまで生きていた母親に会うんだー、私どうなるんだろーって、ぼんやり思っていて、ドキドキしながら病室に行ってみたら、その病で骨と皮みたいになっていた顔は、全くの知らない物体に感じて「あー、ここにはもういないんだー」ってあっさり思えて、そう感じた自分にも少しびっくりして、でも、涙が出てきたのは、やっと苦しい時間からラクになれたねーって、ことでだった。その物体には、今まで母親に形を貸してくれていてありがとう、と思った。いないことのさびしさは、もっとあとになってからだった。山下さんが泣けなかったという「東京タワー」。映画より前に、TV版で田中裕子がおかんをやったのがあって、それが、その頃放映されて、田中裕子はまさしく私が日々見ていた母そのもので、それはストーリーとかじゃなくて、田中裕子が醸し出す微妙な表情、声、それらがシンクロしてたまらなく泣いた。ただ泣いた。悲しいとかそんなんじゃなくて、ただ泣いた。あとで、姉もあれ泣けたねーって言っていた。普段共感したことない姉と初めて繋がった時でもあった。映画は観たこと無いけど、私にはTV版でその世界は充分すぎたので、映画はきっと観ない。
昔、のんびりしたくて、旅行へ行っても、全然リラックスなんて出来なくて、家へ帰ると「あーやっぱり家が一番」と言っていた。逆に、北海道ツアーへただただ観劇のためだけの強行スケジュールで、その辺へ買い物しに行くような身軽な荷物で、ビジネスホテルに泊まったあとの帰宅では、全然そんな風には思わなくて、ただただ満喫の時間の余韻に癒された。
のんびりは、のんびりしよう、という目的だけではできないらしい。
さー、ご飯食べて、会社へ行こ。
kiki @ 2009年 05月 28日 11:35:05
神戸はインフルエンザでエライ事になってるとみんな思ってるでしょ。
テレビのばーか、ばーか。
だから地方の法事なんかにも「神戸からは来てくれるな。」
とか言われる人もいてかわいそうなんだよ?
ちなみに「ウロ」こきながらこいてないふりをすると
「天然」と呼ばれてしまうので注意しましょう。
yuko @ 2009年 05月 31日 00:03:18
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