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<title>烏賀陽（うがや）弘道の音楽コラム</title>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/</link>
<description>サウンド・ジャーナル　～烏賀陽弘道がゆるゆると考えた音楽、人、社会そしてぼく自身～</description>
<language>ja</language>
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<title>みなさん、さようなら。ブログ連載から降ります。</title>
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<link>http://www.actiblog.com/ugaya/7007</link>
<description>みなさん、こんにちは。この欄の担当筆者、烏賀陽（うがや）です。<br />
<br />
　きょうはちょっと残念なお知らせをしなくてはいけません。実は、このＡＦＰＢＢのブログ連載から降りることにしました。その理由をご説明したいと思います。いつもとちがってロックの話題から外れますが、インターネットメディアにとっては、とても大事な話なので聞いてください。</description>
<pubDate>Thu, 08 Jun 2006 00:41:10 +0900</pubDate> 
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<title>文学に肩を並べるロックだってある</title>
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<link>http://www.actiblog.com/ugaya/5590</link>
<description>　　ブンガクの世界でよく使われる言葉に「アフォリズム」というのがある。「簡潔な、圧縮された形で表明された人生・社会・文化などに関する見解」（広辞苑）のことだ。「警句」とか「箴言」ともいう。<br />
　有名なアフォリズムの例はというと、村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」（1979年）の書き出し「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」だろう。デビュー作の冒頭でいきなりこんな大見得を（というか弁明を）カマした村上春樹という作家は、やはり今から振り返っても大物だったんだなあ。この一文にダマされて、いや励まされて小説を書き始めた人間は山ほどいるだろう。</description>
<pubDate>Sun, 30 Apr 2006 02:42:12 +0900</pubDate> 
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<title>意味のない「再結成」はやめてくれ</title>
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<link>http://www.actiblog.com/ugaya/5391</link>
<description>　若いころに輝くような才能のきらめきを見せてくれたミュージシャンが、加齢とともにみっともない姿をさらすのは、本当に悲しい。もうとっくに解散してしかるべきバンドが無益に駄作を出し続けるのもみっともないが、いったん解散したバンドがこれといった創作上の必要性もないのに、お金がほしくて（あるいは忘れられるのがイヤで）再結成をするのは、もっとみっともない。<br />
　先日、1992年なんて大昔に死んだフレディ・マーキュリーの代わりにポール・ロジャースを入れて再結成、来日したクィーンとか、30年以上前にフロントマンであるジム・モリソンが死んでいるのに、フジロックフェスティバルのために再結成したドアーズ（バンド名の使用をめぐってメンバー間の訴訟沙汰にまでなった）などは、その代表例だろう。</description>
<pubDate>Mon, 24 Apr 2006 02:31:03 +0900</pubDate> 
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<title>なぜ日本には健全なポピュラー音楽評論が育ちにくいのか</title>
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<link>http://www.actiblog.com/ugaya/5141</link>
<description>　今回もルー・リードに戻れないが、まあいいや。<br />
　前回書いたコラムに、非常に重要なコメントで寄せられた。4/9付のalivedragon氏の投稿である。「音楽評論家の主たる活動の場はいわゆる音楽雑誌であり、それはレコード会社の広告費で成り立っているという現実があります。また、こうした評論家の多く（特に洋楽）はCDのライナーノートを書いたりしています。職業評論家の肩を持つわけではありませんが、一部のビッグネームを除いて、好きなことを自由に書ける環境にないということも低レベルな評論がまかり通る理由だと思います」。<br />
　今回は、これに応えて「なぜ日本には健全なポピュラー音楽評論が育ちにくいのか」についてぼくなりの考えを書いてみようと思う。<br />
　このコメントを読んで、ぼくはとてもうれしく思った。この指摘の内容はおおむね正しい。リスナーがちゃんとこういう正確な知識を持って評論やマスメディアに接しているのは、非常に健全なことだ。難しい言葉でいうと「メディア・リテラシー」が育っているのだ。日本の自称「音楽評論家」諸氏（そこにはぼくも含まれる）も、こういう目の肥えたリスナーを前提に仕事をすべき時代が来たということだろう。</description>
<pubDate>Sun, 16 Apr 2006 20:02:52 +0900</pubDate> 
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<title>ポピュラー音楽をどう査定するか　その２</title>
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<link>http://www.actiblog.com/ugaya/4864</link>
<description>　ルー・リードの話に戻りたいんだけど、前回「ぼくはポピュラー音楽をどう査定しているのか」についてざっと話しただけで紙数が尽きてしまったので、続きを書く。もう一度おさらいしておくと、次のような座標軸をぼくは設定することにしている。<br />
（１）	作曲者（コンポーザー）としての能力<br />
（２）	作詞者（リリシスト）としての能力<br />
（３）	アレンジャーとしての能力<br />
（４）	イノベイターとしての能力<br />
（５）	プレイヤー（楽器演奏者、歌唱者）としての能力<br />
（６）	パフォーマー（舞台上での演奏、歌唱）としての能力<br />
（７）	エンターテイナーとしての能力</description>
<pubDate>Fri, 07 Apr 2006 19:26:05 +0900</pubDate> 
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<title>ポピュラー音楽はどう査定すればいいのか？</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/4629</link>
<description>　ルー・リードの話が2回続いたので（個人的に好きなもんで、つい書くのに夢中になっちゃった。すみません）、今回はちょっと休憩。<br />
　話題をちょっと変えて、ポピュラー音楽家の作品を評価するとき、どんな手法を用いればいいのか、ぼくなりの考えを書いてみようと思う。乱暴な言い方をすれば、一種の「ミュージシャンの業績査定方法論」である。まあ、あくまで「試論」なので「評論家、あるいはジャーナリストとしてのウガヤはこんな考え方でプロのミュージシャンの仕事を価値評価している」くらいに受け取っておいてもらえれば結構だ。<br />
　なんでこんな方法論を提示するのかというと、現況の日本のポピュラー音楽批評は、ごく少数の例外を除いて、たいして読む価値のない「印象批評」に終始しているからである。</description>
<pubDate>Sat, 01 Apr 2006 15:14:03 +0900</pubDate> 
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<title>ルー・リードその２　ロックはジャーナリズムにもなる</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/4315</link>
<description>さて、先週のルー・リードの話の続き。<br />
　ルー・リードがすぐれたソング・ライターだという話は先週書いたけれど、じゃあ彼がパーフェクトなミュージシャンなのかというと、そんなことは全然ない。<br />
　はっきり言って歌はヘタだ。声域は１オクターブもないんじゃないだろうか。声量もない。ぶつぶつボソボソ、つぶやく、というか、ぶっきらぼうで、おっさんのひとり言みたいな歌い方である。わざとそういう歌い方をしているのかと思ったら、たまにライブで張り切って歌っている録音を聞くと、音程が見事に外れている。どうやら本当にそういうブツブツボソボソな歌い方しかできないらしい。</description>
<pubDate>Fri, 24 Mar 2006 00:36:37 +0900</pubDate> 
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<title>ルー・リード　ロックの巨人が残したもの</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/4105</link>
<description>　ルー・リード（1942年生まれ）が今日のロックに与えた影響は巨大だ。このコラム１回で語り尽すなんて無理だ。それだけで連載がひとつ、あるいは本が一冊書けてしまう。というわけで、何回かにわけてルー・リードについて書いてみよう。</description>
<pubDate>Sun, 19 Mar 2006 16:30:06 +0900</pubDate> 
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<title>ロックに自然な加齢ってないのだろうか？</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/3799</link>
<description>●タトゥーに人気なのは「死人」　<br />
さて、前回のローリング・ストーンズの話の続き。<br />
　数年前の話だ。ニューヨークでタトゥーを入れに行ったとき、無聊の慰めに「ロック・アーティストでタトゥーの柄になることが一番多いのは誰なんだろう？」と彫り師のお兄さんに聞いてみた。その彫り師のお兄さんがしばらく考えて言ったのは「ジム・モリソンとジミ・ヘンドリクスかなあ」だった。<br />
　なるほど。納得できる話だ。タトゥーとは不思議なもので、入れた瞬間に、その絵柄が自分の体の一部として栄養を吸いながら生きているような気がするのだ。<br />
　ジミ・ヘンドリクスは1970年、ジム・モリソンは71年、どちらも27歳で死んでいる。二人とも天才だった。ヘンドリクスはギターで、モリソンは歌と詩で、短い期間に、それまでのロックの流れを一気に塗り替える大きな仕事をいくつも成し遂げたあと、あっという間に世を去っていった。<br />
　つまり二人は死人（しびと）なのだ。死人だからこそ、人々はその姿をタトゥーにして体に入れ、新しい命を吹き込もうとするのだろう。</description>
<pubDate>Sun, 12 Mar 2006 19:52:16 +0900</pubDate> 
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<title>ローリング・ストーンズはすでに死んでいる</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/3508</link>
<description>●アメフトの座興になぜストーンズが？<br />
　ローリング・ストーンズが、米国スーパーボウルのハーフタイムで演奏した、という話を聞いて仰天した。確かに「全アメリカ人の半分が見る」と言われるスーパーボウルである。桧舞台にはちがいない。が、単独でスタジアムをいくつも満杯にする実力のある「ロックバンドの世界最高峰」とまで称されるローリング・ストーンズとなると話は別だ。なぜ彼らがアメフトの座興など務めねばならんのか。<br />
<br />
　実際に中継を見たアメリカ人の友人に何人か聞いてみても、やれ「音が最悪だった」「会場がでかすぎて親近感がない」と評判は散々だった。そりゃそうだ。幕間の座興なのだから、ベストコンディションのコンサートなどできるはずがない。ますます理由が納得できない。</description>
<pubDate>Sun, 05 Mar 2006 00:28:01 +0900</pubDate> 
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<title>「米国ポピュラー音楽界の人材が厚い理由」</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/2649</link>
<description>●すぐれたマルチメディア・アーティスト<br />
　ローリー・アンダーソンの名前を聞いてピンと来る人は、80年代初頭に青春を過ごした人か、そうでなければ、よほどのアート通だろう。1947年生まれのこの優れたアメリカ人マルチメディア・パフォーマーを、一体何人の日本人が知っているのだろう。<br />
そういえば、昨年八月から十月に東京で彼女の回顧展が開かれたから、日本での知名度もちょっとは上がったのかもしれない。<br />
　音楽にパントマイム、スピーチ、グラフィック、彫刻、果ては映画やスライドまで組み合わせてひとつの作品に仕上げてしまう才能は、彼女独特のものだ。</description>
<pubDate>Thu, 16 Feb 2006 15:58:00 +0900</pubDate> 
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<title>なぜロックはつまらなくなったのか</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/2610</link>
<description>●ロックはもはや大人公認の音楽<br />
 先週ビースティー・ボーイズのことを書いたので、ついでにラップ、ヒップ・ホップムーブメント全体のことを書いておこうと思う。<br />
　ラップを含めたヒップ・ホップムーブメントのおかげで、ロックはすっかり「大人の音楽」になってしまったとぼくは考えている。「大人の音楽」などといえば聞こえはいいが、単刀直入に言ってしまえば、ロックは今やおっさんやおばはん世代公認の音楽であって、最先鋭の若者文化ではなくなってしまった。そんな感触が拭えないのだ。</description>
<pubDate>Wed, 15 Feb 2006 21:38:24 +0900</pubDate> 
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<title>ビースティー・ボーイズ　たくましき悪ガキたち　音楽も経営も社会活動も　</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/2356</link>
<description>●「来日」というよりは「出張」<br />
　ニューヨークの白人（正確にはユダヤ人）三人組みラッパー「ビースティー・ボーイズ」のマイケル・ダイヤモンド（65年生まれ）に東京でインタビューしたのは、９７年２月だった。ぼくが「アエラ」の記者だったころだ。<br />
　日本ではビースティーとしての音楽活動はなし。自分が会長を務めるヒップホップ・カルチャーの総合ブランド「グランド・ロイヤル」（いつもサイコー、くらいの意味）の売り込みにひたすら奔走していた。はた目には「来日した」というより「出張に来た」という感じだった。<br />
　所属するミュージシャン四組を日米豪から集めたライブを東京と大阪で開き、三千人を動員。東京ではファッションショーも開いた。これが、なぜかでかいイヌ十匹がセーターやＴシャツを来て練り歩くというキテレツな催しだった。「最悪のヘアスタイル体験記」とか「究極の痴話ゲンカベスト５」とか、わけのわからない記事が並ぶ雑誌も出していた。まあ、ビースティーが歌う、ギャグと真面目の境界ギリギリのセンスを商品化したのがこのブランドだったわけだ。これが米国ではバカ受けした。ローリング・ストーン誌が「レコード・レーベルでもあり、雑誌でもあり、ライフスタイルでもある。『グランド・ロイヤル』は今やメディア王国になった」と書いたほどだ。</description>
<pubDate>Fri, 10 Feb 2006 17:49:02 +0900</pubDate> 
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<title>カナダ生まれのロックの良心　ニール・ヤング　キャリア四十年</title>
<category></category>
<link>http://www.actiblog.com/ugaya/1583</link>
<description>●カナダはポピュラー音楽大国<br />
　日本人にはアメリカ人とあまり区別がつかないのだが、ポピュラー音楽の歴史に残るような仕事をしたカナダ人のミュージシャンは案外多い。デビュー以来３０年間に二千万枚以上のレコードを売ったパワー・トリオ「ラッシュ」はトロントの出身だし、６０年代から活躍している歌姫ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディランのバックバンドでもあったザ・バンド、カウボーイ・ジャンキーズなど、欧米のポピュラー音楽界に詳しい人なら、すぐにピンと来る名前がたくさん出てくる。その意味で、カナダはアメリカとイギリスに次ぐ「ポピュラー音楽大国」といっていいかもしれない。その中でも、キャリアの長さ、創作の活発さ、作品のクオリティの高さという点では、ニール・ヤング（１９４５年トロント生まれ）の右に出る者はいない。また、カナダ人であるということを別にしても、彼ほど長く、リスナーやミュージシャンの尊敬を受け続けている存在も稀だろう。ぼくも、彼を敬愛する人間の一人だ。</description>
<pubDate>Wed, 01 Feb 2006 18:48:58 +0900</pubDate> 
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